気の赴くまま筆を取り、描いていくのは自分の理想?

 そう言われればそうかもしれないし、違うかもしれない。
 でもたぶん答えは前者、だって折角の自分の世界だから。
 描(えが)いていくのは理想に近いものだと思う。



「な、お前ってさそーゆーの好きだよな」
 筆を取って白いキャンバスに向かうわたしに話しかけてきたのは、後ろのベッドに寝そべって本を読んでいた年若い同居人だった。
「……まぁね。 そうだな、君の本読みと似たようなものだろうな」
 白いキャンバスを前にイメージを広げる。様々な色彩を思い浮かべて、形を造る。
「そういうもんなのか? オレは全然違うよーな気がすんだけど……」
 後ろの方で気配が揺れる。どうやらベッドから起き上がったようだ。けれど、そこから動こうとはしない。
「違う? ほう、それじゃ君はどう思うんだい?」
 一旦筆を置いて、後ろを振り向く。すると振り向いたことに驚いたのか、妙に慌てた同居人の姿が映った。
「えっ、いや……思うとかそんなんじゃねぇんだけどよー……」
 頬を掻きながら、手元にあった本を捲る。本をあまり読まないわたしにとっては拷問にも近いその厚さ。一瞬、あれで殴られたらそのまま天に召されるかな、なんて考えてしまうくらいだ。
「ほら、本を読むってのはさ、既に造られた世界に招待されてるみてぇなモンじゃん? それぞれの作者が思い思いに造った世界に」
 そこで彼は一息置いて、今度は頭を掻きながら続けた。
「でもさー、その……お前がやってるヤツはさ、自分で造っていくモンだろ?」
 本質が違うと思うぜ?、と彼はわけのわからない自論を並べた。わたしはその言葉にウーン、と頭を捻った後、指を一本立てて言った。
「――言わせて貰えば。ティカの最初の言葉とその答えは何だか食い違っているように思うんだが?」
「へ?」
 そうか?、と彼――ティカ=ルータミネスは間の抜けた声を出した。


 暖かな日差しが心地よい午後の事。いつもの場所でいつもの事を、それぞれにやっている時だった。つまり、わたしは絵を描き、ティカは本を読んでいたわけだ。
 狭いとは言わないが、決して広いとも言えない部屋の一室でその相容れない二つの事をする。お互いにあまり干渉することはない。
 なら何故、同じ部屋でそれをするのか――?
 ……その答えはわたしには出せない。何故かと言うと、別にわたしが望んでしている事ではないからだ。いつも、どの部屋に画材を広げても、ティカは必ずその部屋にやってきて本を読み始めるのだから。
 最近ではあちらこちらに部屋を変えるのも面倒くさくなり、一室に決めているのだが。


「えー、でもよー? やっぱり違うと思わねぇ?」
 物凄く重そうな本を片腕に抱えながら、ベッドを後にする。そして、キャンバスを背にしたわたしの方へと歩み寄ってきた。……本、ベッドに置いてくればいいのに。と少し思ってしまった。
「いや、わたしが言っているのはだな。この絵を描くというのと、本を読むというのがどう違うか、ではなくて。
 わたしの絵を描く事と、君の本を読む事がどう違うか、ということなのだよ」
 自分でもよくわからない表し方だな、と頭の片隅で思いながら、近くにやってきたティカに言った。
「勿論、さっき君の言った“違い”はよくわかるし、わたしもそうだと思わなくもないがな」
 と、小さく付け加える。
 その言葉が聞こえたのか、(わたしから見れば)まだ幼い同居人は、笑みを見せた。
「お前の言いたい事はよくわかってるって。要するにアレだろ? 好きな物だって事だろ?」
 趣味って言った方が早ぇかもな、と白いキャンバスを見つめながら笑う。わたしはその言葉を聞いて、「わかっているなら最初からそう言えばいいじゃないか」とぼやいた。



 * * *



「なぁ、ミライザ」
 今日もいつものように、いつもの部屋でいつもの事をしている時の事だ。いつもと同じように分厚い本をベッドに寝そべりながら読むティカが不意に声をかけてきた。
 わたしは相変わらず頭の中に強いイメージが浮かばず、白いキャンバスの前で唸っていた。
「ん? 何だ?」
 右手は筆を、左手はパレットを持った状態でキャンバスに向かう姿は少しだけなら“らしく”見えるだろうか?ついでにどんぐり帽子でも被れば一端の画家を気取れるかもしれないな、なんて心の隅で思った。
 けれどもその外見に伴わない陳腐なイメージ。最近、わたしは絵を描く事が嫌になりつつあった。
「……あの、さぁ?」
 彼らしくない、淀む言い方に疑問を覚え顔だけ後ろを振り向いた。しかし、振り向いた先のベッドには彼の姿は無く。いつの間に来たのか、振り向いた方とは反対の位置に彼は居た。
「――音も立てずに忍び寄るとは……腕を上げたな」
 と、変なところで感心したりして。
「オレもさぁ……、やってみてもいいか?」
「……は?」
「いや、だからー……オレも絵、描いてみたいなぁ、とか思ったりして」
 最後の方は明らかに茶化して言っていたが、頬に幾分赤みが差していることから、本気なんだと判断する。
「君が? 絵を? ――別にわたしは構わないが……そうか、興味を持ったのかな?」
 “造ることに”という言葉は胸の内に留めておく。けれども、それはちゃんと伝わるだろう。
 手ごろな筆と紙――始めからキャンバスに描くのは難しいだろう、と思ったからだ――を探し出すと、わたしはティカに手渡した。そして近くにあったテーブルの所へ行き、わたしも同じように紙を広げる。
「わたしの観念を押し付けるわけではないが、もし“生きているもの”を描くのであれば彼等の事、ちゃんと考えてから描くと良いぞ」
 そうすれば彼等も絵の中で永遠に生きていくことが出来るからな、と紙の前で筆を握り締める人に言う。彼はわたしの言ったことが理解出来なかったのか、きょとんとしたような表情をした。
「……何だ、ティカ。この前はあれほど饒舌に語っていたではないか。
 “自分で造っていくモン”なのだろう?」
 普段の自分ならば絶対に使わないような言葉遣いで、言ってみせた。その物言いにか、それともその言葉にか、どちらかはわからないが、はっと顔を上げたティカにわたしは微笑みかける。
「まぁ、私の言い分はどうでも良いだろう。 自分の好きなものを描くと良い」
「――……ミライザの言った事はよくわかんねぇけど、すっげぇモン、造ってやるぜ!」
 微笑みかけた私に、太陽のような笑みを返して、ティカは強く言い放った。


 理想を造ろう。 理想の世界を、理想の空間を、理想の人を。
 頭の中にイメージして、手を動かすとその理想はすぐに現実のものになる。
 それは決して自分のいる時代と重なることはないけれど、どこかの時代で、どこかの世界で現実になっているのだ。自分の思い描いた世界で、暮らす人たちが出てくるのだ。

 ――なんて面白いんだろうか。
 ――そして、なんて……素敵なんだろうか。

 わたしは紙に向かうティカを見て、久々に強いイメージが沸き起こってくるのを感じた。筆を握ったままだった手が、酷く震えている。――描きたくて、堪らない!!言わば、武者震いのようなものだった。
 逸る気持ちと、沸き起こり続けるイメージを全身で感じながら、わたしはキャンバスに向かう。
 左手のパレットには、無限の可能性を生み出すのに十分な色数。
 少し離れたテーブルから、ティカが腕を動かすことにより発する衣擦れの音が聞こえ出した。

 わたしは大きく息を吸い込んだ。
 そしてパレットに筆を持っていき、鮮やかな色に染めていく。

 白いキャンバスは、すぐにわたしの理想の世界へ変わっていくことだろう。
2004.2.19.