十分にわかってる。
私の事を嫌いだって事くらい。
だから私も“嫌い”、って言ってる。
だって……そうしないと、胸が苦しくなってどうしようもなかったんだもの。
朝起きて、服を着替えて洗面所へ向かい顔を洗う。
冷たい水を顔にかけて眠気を飛ばし食堂へ。
家族に挨拶をして朝ご飯を食べ、食べ終わったら自室に戻って学校に行く準備。
それも終わったらリビングに行って出る時間までの暇つぶしにテレビを見る。
――今日の天気は雨か。じゃあ傘を持って出ないといけないな。
そう思って窓の外を見る。
確かに空は暗く、この季節の朝だから、というだけではないどんよりとした空気が漂っている。
嫌だわ……こういう日は天然パーマの入った髪が更にうねうねになるんだから……。まだ美容院で整えて貰っているから昔よりはマシだけど、でも雨の日は当社比150%くらいは巻きが多くなってしまう。
「祐美(ゆみ)ちゃん、時間は大丈夫?」
「もう少しで出るつもり」
未だに娘を“ちゃん”付けで呼ぶ母は世間一般と比較すると若く見える、――でも実際の年齢はそれなりの、若作りの人だ。
まぁ、若作りと言ってもごく自然に若く見えるだけであって、化粧が何層もありそうな気持ち悪い物では無いから、ヨシとする。
ちなみにこの天然パーマと茶色系の髪は母譲り。父譲りの妹のストレートがちょっぴり羨ましい。
「お弁当、お茶と一緒に玄関に置いてるからね。忘れないでね」
「うん、ありがと」
テレビの隅に出ている時計によるとそろそろ出なければいけない時間らしい。
立ち上がって鞄を持つと、
「あれぇ?お姉ちゃん、もー出るの?」
今頃起きてきた妹が眠そうな目をこすりながらリビングにやってきた。
「結衣(ゆい)はいつもそんな寝坊で大丈夫なの?」
これでも一応同じ学校に通っているのだから驚きだ。
「うん、だいじょーぶ。ちょっぱやでご飯食べて用意してダッシュで走ればギリギリチャイム10秒前に着くもん」
「……そう」
その10秒前という神経は甚だ理解出来ないけれど、遅刻じゃないだけマシかしら。
「母さん、じゃあ私は行くから」
「はいはい、いってらっしゃい。結衣ちゃん、お姉ちゃんのお見送りするわよ」
「えー、お見送りって、行く場所一緒じゃん。めんどくさいよー」
「結衣はいいわよ。早くご飯食べちゃいなさい」
「はぁーい!いってらっしゃーい!」
玄関までは来ず、その場で手を振る妹を横目に小さく息を吐いた。全く、能天気そうな事で。
お弁当とお茶を鞄に入れて母さんに「いってきます」と告げて、扉を開けた。
後はそこから出て、また扉を閉めるだけ――のはずだった。
けれど後ろから
「あ、そういえば」
なんて声が聞こえたら、それを止めて振り返るくらいはしなくちゃいけないだろう。―― 一応。
「何?何か、あるの?」
そう問いかければウンウンと頷き返された。
そしてその口が開き、
「ご近所の秋(しゅう)君、最近見ないわねぇ」
「……」
また、小さく息を吐いた。
内心はかなり大きな溜息だったんだけど。
「どうしてるのかしらねぇ。クラス一緒だったかしら?また家にも遊びに来て欲しいわぁ」
そう言いながらチラチラとこちらを窺うように見てくる。
――わかってるくせに、こういう所がちょっと嫌いだ。
「……いってきます」
その言葉には返さずにもう家を出る事にした。
「あぁっ、祐美ちゃん」
と後ろから声がかかってきたけど、それは無視する。向こうだってそのくらいは予想してるはずだから構わないだろう。
少しいつもよりも遅い足取りで通学路を行く。
さっきの母さんの言葉が頭の中で巡っては、次のステップへ行こうとして、それを必死で押し留める。
『また家にも遊びに来て欲しいわぁ』
なんて。
ありえるはずが無い。
……だって、私は彼に、嫌われてるんだもの。
学校に着くとぼちぼち生徒が登校していたけれど、ピークにはまだ遠い。
人が少ない下駄箱で靴を履き替えていると後ろを通る気配があった。
反射的にそちらを見ると、向こうもそれに気づいたようでこちらを見て、結果的に目が合った。
「……」
彼、だった。黒縁の眼鏡の向こう、その瞳が私を射抜く。
挨拶をしようかと思ったけど、上手く口に出せない。
すると彼は一瞬目を逸らした後小さく溜息。そして、心底嫌そうに、
「おはようございます、新城(あらき)さん」
と言った。
流石にここまでバッチリ合ってしまったら言わないのはマズいだろう。
なんて心情がありありと見て取れる。
そんな事を読み取って胸に痛い感覚が広がるけれど、それは気がつかれないように隠して。
「……おはよう」
視線を逸らして呟くように返した。
そしたらまた後ろで溜息をつく音が聞こえた。
「相変わらず、ですね」
小さな声で本人としては独り言だったのかもしれない、でも聞こえてしまった。
「……うるさい、わよ」
一足先に去っていった彼の背中を見て、独り呟いた。
* * *
昔は仲の良い幼馴染だった。――と母さんは言っていた。
実際にそうだと思う。記憶はかすれ気味だったけど、なんとなく頭の隅にそんな感じの思い出がある気がする。
なら、なんで今はこんな事になってしまったんだろう。
仲の良い幼馴染のままだったら良かったのに。
もっと近い存在で居られたかもしれなかったのに――今は顔を合わせて言葉を交わしても、刺々しい雰囲気しか作れなかった。
いつだったかはもう忘れてしまったけれど、唐突に彼は私の事を嫌っているんだという事に気づいてしまった。
と同時に、自分が彼の事を好いていたのだという事にも気づいた。
バカみたいだ。
自覚した途端に、失恋大決定だ。正直笑えない。
だからその時にやけに捻くれた思考をしたらしい私は、それから“どうせ嫌われてるんだから”みたいな前提で接してきた。
なんで好かれたいと思えなかったんだろう。
なんで取り返しがつかなくなった今になって――その思いが胸を圧迫してくるんだろう。
嫌われてるなら、こっちも嫌いになれれば良かった。
なのに日に日に想いは増していくばかりだ。
本当に――バカみたいだ。
教室へ向かう廊下を歩きながら自分のバカさ加減に呆れて肩を竦めた。
角を曲がってやがて見えてきた教室。
丁度ドアを開けて出てきた友達の顔に考えていた事を振り払う。……今更考えても仕方ない事なんだから。
「あ、祐美、おはよー!宿題やってきた?」
「勿論。……何、蒼依(あおい)やってこなかったの?」
「……え、えへへ」
笑って誤魔化そうとでもいうのか。
パンッと顔の前で手を合わせる友人の次の言葉は目に見えている。
「「見せてください!」 ――でしょ?」
「あれ、すごいなぁ。祐美、エスパーか何か?」
「……いや、わかるでしょうそのくらい。丸写しは禁止だけどヒントくらいはあげるわ」
「わっ、ホント!嬉しいー!持つべき者は心優しい秀才の友達だよね!」
にこやかにそう言って私の手を引いた。
全く調子が良い。
でも彼女のこういう所、案外嫌いではなかった。
教室の中に入って自分の机に向かう。廊下側の後ろから三番目。いいんだか悪いんだか、微妙な位置だ。
鞄の中身を机に移す。
ふと窓際を見ると一番後ろの席の彼が目に入った。
彼も私と同じく来たばかりなので鞄の中身を出しているようだった。
ずっと見ていたら気づかれてしまうだろう。サッと視線を戻して鞄をごそごそとやった。あと出すものは筆記用具だけ。それも出してしまってから、もう一度彼の方を見た。
さっきまでは一人で居た空間には数人集まっていて、蒼依のような魂胆の男子や――彼を好いているという噂の女子達が周りに居た。
「おぉー、やっぱり渡辺(わたなべ)も大人気だねー」
ノートとシャーペンを持った蒼依が脇に立ってそう言った。
「……どうでもいいわよ、あんなの」
周りに居る女子に苛立ちを覚えていつものように憎まれ口を叩いてしまう。
ひゅうと口笛のようなものが鳴って蒼依が笑った。
「わおー、相変わらず嫌ってるんだね~。幼馴染なんでしょ?」
「幼馴染が絶対仲良いって事は無いわ。――さ、それは置いといてやるわよ」
「よろしく!」
スチャッと手を上げて言う蒼依に「丸写しじゃないからね!」と釘を刺しておく。言っておかないといつの間にか丸写しにしそうなんだもの。
時間が無い!、とかで最後の方の数問は丸写しにさせてしまったけれど、大方は解けたみたいだからヨシとすべきかな。
チャイムが鳴って担任の先生が入ってくる。
数学を担当するヤル気が無い事が有名な――実際にそうだからちょっと困る――先生が、毎朝ヤル気無さげに出席を確かめていく。
まだ若いのに(少し前に30歳になったばかりなのだ)そのヤル気の無さはちょっとヤバイと思うくらいのぐでぐでっぷりだ。
出席番号が一番の私は返事をしながら、ふと思い出した。
……そういえば結衣はちゃんと着いたのかしら。
遅刻は今の所無いけど、いつかはしそうな気がするのよね……。
出席を取り終わり、簡単な連絡をすると先生は立ち上がった。
「新城、渡辺、スマンが一時間目に使うプリント取りに来てくれや。先生重たいモノ持ちたく無いんだ」
最後の部分は余計でしょうが、と思ったが、それに反論する前に、
「はい」
ガタッと窓際一番後ろの席から立ち上がる音が聞こえる。
「……わかりました」
私もそれに続いて立ち上がった。大げさに溜息をつきながら。
反論をしそこねたので、せめてこのくらいは、と思い、こう付け足しておく。
「重たいモノならか弱い女の子に持たせようとしないでくださいよ、先生」
「か弱い?……か弱い?――新城、お前自分がか弱い女の子だとでも思ってるのか!」
ものすごく吃驚したように目を見開いてみせる先生。どっとクラスから笑いが起こる。
――まぁ、笑いを取る為に言ったようなモノだからいいんだけどね。
だけどね!
出入り口で待つ先生の近くまで行って、
「思ってます!か弱い女の子扱いしてくれない先生の手伝いはしたくないですねー」
そう言ってやった。
そりゃあ勿論手伝うけれど、言われっぱなしは嫌だし!
すると先生はぬっと手を伸ばし、
「なっ!そう言わずに頼むよ副委員長~。イイコイイコしてやるからさ~」
「ちょっ、やめてくださいよ!!」
わしゃわしゃと私の頭を撫で(というかき混ぜ)ながらそう言った。
これがハゲ上がって脂ぎった中年の親父ならセクハラで訴えるわよ?!……なんて思いつつもその手をどける。
「もー、仕方ないから手伝ってあげます」
「おぉ~、ありがとな新城!じゃあ渡辺も頼むわ!先生、ちょっと一服――じゃなかった、トイレ行ってくっから」
なんて言って笑って教室を出て行ってしまう。
「マキせんせー最低だけど、サイコーだな」
「ま、相変わらずって感じだけど」
そんな皆の声が教室内で上がって。
……最低、だけだと思うわ。と私は思ったのだった。
職員室まで廊下を二人で歩く。当然会話は無い。
――と思っていたんだけど。
「牧原先生は新城さんを気に入ってるんだな」
唐突に、横からそんな事を言われた。
「気に入ってる?……アレはからかってんのよ、見ててわかんないの?」
「見ててわかるからそう言っている。からかうのなんて、気に入ってないとしない事だ」
そう言われればそうかもしれないけど。
チラと横を見れば彼は真正面を見てこちらには一瞥もくれていない。
そしてそのまま、
「新城さんも先生を気に入っているようだけど――先生と生徒の恋愛はどうかと思うぞ、僕は」
なんて事を、のたまいました。
「……は?」
「少々年は離れているかもしれないけれど、見た目的には許容範囲だろうから。忠告だ」
「……はァ?」
開いた口が塞がらないとはこの事ですか。
「っのねぇ!!バカな事言わないで頂戴!私と先生はそんな関係じゃ――っ」
そう言った所で職員室手前の階段から当の牧原先生が上がってきた。
「お、来たかー。悪いな、二人とも」
なんて間の悪い!
私の言いかけた言葉は先生の登場によってかき消されてしまった。
「お?お?なんだお前等、仲悪いのかー?」
にへらっと笑って言う先生をギッと睨みつけてやった。
そりゃあこの雰囲気からそう取れるのは仕方ないかもしれないけれど、それを実際に口に出す?!
――と、私のそのオーラに気づいたのか顔が引きつった。
「え、っと、じゃ、プリントな、こっちだから!」
くるっと回って体ごと顔を逸らしたけど――後で文句言ってやるんだから!
「……やっぱり、……」
隣でぼそっと彼が呟いた。
「え?」
私には何を言ったのか、聞こえなかったのだけど。
* * *
「渡辺君」
「秋君!」
「わたなべー」
「わたべー」
「……おい、僕はわた“な”べだが」
昼の時間、彼の周りにはすぐに人が集まる。
決して愛想が良いタイプだとは思えないのに――決して私にだけ、ってわけじゃなくて――どうしてこんなに人気があるんだろう。
「祐美ゆみー!お昼ー!」
「蒼依」
お弁当袋を持った蒼依がこちらへやって来た。
「今日はさァ、雨だから屋上に行かない?」
「……はい?」
4時間目に入った頃から雨がパラついていた。
……なのに、何故屋上?
普通なら“晴れだから”となるべき所じゃ無いの?
不審そうな視線を向けると蒼依は笑って言った。
「いーじゃん!あたし雨好きなんだもん!」
「私は好きじゃない。濡れるの嫌。屋内がいい」
素っ気無く言い返すとぷぅーっと頬を膨らませた。
「濡れるトコは使わないよー。屋上の、屋根のあるトコで。ね!」
ガシッと片方の手で掴まれ、もう片方は拝むようにして、蒼依は食い下がってきた。
こうなると蒼依が折れないのを知ってるし、自分がいつも許してしまうのもわかってる。
「……わかったわよ」
「やったー!」
私はハァと溜息をついてお弁当袋を手に取った。
屋上へ上がる階段を行く。
あともう少しで着く、という所で、蒼依が「あっ」と声を上げた。
「何?どうかしたの?」
「あたし、今日お茶持ってきてなくて、買おうと思ってたんだった!ちょっと自販機で買ってくる!」
言い終わるや否やタタタッと下りていってしまった。
雨のせいで滑りやすくなってるし、コケなきゃいいけど……。
自動販売機はここからだと結構距離がある。
先に場所確保でもしておきますか。――まぁ、雨だから人は居ないと思うけど。
ギィ……
扉を開けるとしとしとと雨が降っている。思ったよりも酷く無く、横降りでも無いので屋根のある部分は大丈夫そうだ。
屋上にはせいぜい2グループくらいしか座れない空間だけど、屋根のある場所があって、最近ベンチも加えられた。
そのベンチに、
「げっ」
牧原先生が座っていた。……煙草をふかしながら。
「ちょっと、“げっ”は無いんじゃないの?失礼ね」
「いや、スマンスマン。つい、な」
ハハハハ、と笑う牧原先生の方へと歩き、ど真ん中にどっかり座っていた先生を押しのける仕草を取った。
「ええ、何だよー、俺、めちゃくちゃ休憩してるトコじゃねーの」
「灰皿の無い所で吸っちゃダメだって言われてるのに、守らない大人にそんな事を言う資格無し。速やかにどいてください」
ぐいぐいっと押しやって、無理やり場所を確保する。
「祐美……お前ね」
「学校では!“新城”で通す、って言ってたの誰だっけ?」
ビシッと指差した。
「えー、でも誰も居ないしよう。めんどくさい」
「めんどくさいって……じゃあ私も“ゆーちゃん”って呼ぶから」
「ゆーちゃんはヤメロ、ゆーちゃんは。豊(ゆたか)でいいだろ」
「嫌よ。ゆーちゃんで十分」
ぐいいっともう一押し。……ヨシ、これで蒼依の分も確保出来た。
「ったく、おじさんは凶暴な姪を持って悲しいよ」
「うるさいから」
そう――牧原豊(まきはら ゆたか)先生は、私の母方の叔父だ。
ヤル気の無さは一体誰に似たのかわからないけど、顔はどことなくお母さん、ひいてはおばあちゃんに似てなくも無い……ような? ちょっと適当な事言ったかもしれないけれど。
お母さんとは年が離れていて、私が小さい頃はまだ学生だったゆーちゃん。
母方の実家に遊びに行くことが多かったので、叔父・姪というよりも年の離れた兄妹と言った方が合ってる気もする。
昔はたくさん遊んで貰ったし、今もそこまで嫌いじゃないんだけど。
「そーいやさぁ、祐美。お前、宿題のプリントの最後の問題間違ってたぞ。ダッセェー」
……こういう事するからちょっとムカつく。
「はいはい、そうですか」
間違ってたのは悔しいけど、ここで悔しがると増長するから流すと、
「で、松崎蒼依(まつざき あおい)も全く同じ間違いしてた。写させたろ、お前。ぷぷぷっ、二重でダッセェー!」
……ホッントムカつくわ。
小さい頃から知ってて気安いからか、こうしてよくからかってくるのが本当にイラッとくる。
そうよ、大体こういうのが積み重なって――秋(しゅう)に、誤解されちゃったりするのよ……。
しばらくして、蒼依がやってきた。
「おぉっ、マキ先生だー。何?ナンパ?」
「いやいや、松崎わかってないな。何が悲しくてこんなのをナンパしなきゃいけないんだ?」
そんな台詞を吐くもんだから、スパコーンッと叩いてやってから、
「私も、“牧原先生”なんかにナンパされたって嫌ですから、お互い様」
ツンとして言い返す。――デレは特に無いので、そういうのではない、多分。
だって、本気でおじさんにナンパされたって何の得も無いしね。
「ふーん、まぁ、いいや。あ、祐美、ほーい、コレ!」
ポンと手渡されたのはプリン。
「蒼依、これって!」
「ついでに購買寄ってきてさ。へっへっへー、もぎ取ってきましたよ!雨の日に外、一緒に出てくれる祐美へのお礼って事で」
購買に時々入る、とろけるプリン。美味しいから女生徒に大人気で、すぐに売り切れるので有名なのだ。
「人多かったでしょ?ありがとう蒼依」
「いいええー。まぁ、多かったけどね!でも良い事もあったよ!」
えっへっへ、と笑う蒼依。何だろう?と首を傾げると、
「5組の蘭(らん)ちゃんを間近で見ましたっ!至近距離でなんかね、いーい匂いしてんの!」
……蘭ちゃん、とは、同学年の中で一番可愛いのでは?と噂の藤乃蘭(ふじの らん)の事か。
どこか、外国の血が混じってるとか混じってないとかで、若干日本人離れした顔立ちの綺麗な――というよりかは、可愛い、人。
遠目に何度か見たけれどそこだけ雰囲気が違うような、そんな感じの人だった。
「でねでね!蘭ちゃんもプリン買おうとしてたみたいなんだけど、もみくちゃにされてて。あぁっ、バランス崩してコケちゃう――!ってトコで、そこに王子様登場ですよ!」
「……王子様?」
空想癖のあるらしい蒼依の話は、時としてこんな風に普段はあまり聞かない単語が出てくる。
「まー、世間一般から見てアレが絶対王子様に見えるかどうかは置いといてさ」
「うん、蒼依の主観で話してるっていうのは十分わかってるわ。その主観がだいぶ創作じみてる事も」
「……祐美って時々酷いよね」
「普通よ。それより続きは?」
兎に角、先が気になったので促す。
「あ、うん。どこから沸いてでたのかわかんないんだけどね、そこに渡辺が颯爽と登場したワケですよ!」
ドクン、と心臓が震えた。
「コケそうになった蘭ちゃんを抱きとめて、『大丈夫ですか?』だよ!!!!アレは絶対惚れたと思うよ!! 渡辺、くぁっこいいい~~!」
「くあっぁっこいいい~~~!!」
私の後ろで興味津々に話を聞いていたゆーちゃん――改め、牧原先生が声を上げた。正直、うるさい。
雨でかき消されるとは言え、そんな変な台詞で大声で言うな、と。
「何だソレ!ウチの委員長はマジ王子様だな!」
「でしょでしょ!?マキ先生、話わかるぅ!今度一杯どーです?!」
テンションの上がる二人。でも私は下がる一方だ。
だって――好きな人が、他の女の子にそんなのしてるって聞いて、テンションが上がるわけが無い。
蒼依も私の想い人を知ってたらこういう事わざわざ報告(?)したりしないんだろうけど、表向きは嫌ってて、そしてそれを蒼依は信じてるワケで。……まぁ、嫌いな人間の話をするってのもちょっとアレなんだけど。
「蘭ちゃんを抱きとめる渡辺!なんてーかまさしく王子様とお姫様って感じでさ!周りの人間もつい、ほぉ~っとなってたモンですよ。蘭ちゃんは当然、渡辺も結構顔整ってるもんねー、なかなか見ごたえのあるワンシーンでした!」
「いいなー!俺も見たかった!松崎のその目は、カメラとか内臓してねーの?」
「いやぁ、あたしもそうだったら良かったのになーって思ってたんですけどね。残念ながら……」
何が残念ながら、よ。全く……。
ハァ、と溜息をつくと盛り上がる二人を他所にお弁当を開けた。
――開けたら開けたで、今の気分とは真逆を行く能天気なキャラ弁でまた溜息が出た。色とりどりのおかずの隣、ご飯にはスイスのペンギンが笑っている。
「……」
ぶすっと刺して顔半分を箸で取り、口へ運ぶ。
見た目だけで味の変わらない、顔が半分無くなった海苔弁は、やけに今の気分に沿ってる気がした。
* * *
お弁当を食べて教室に戻ると、そこはもう雰囲気の違う空間になっていた。
「ん?何かあったの?」
蒼依が先に教室を覗き込み、あんぐりと口を開ける。私もそれに続いて中に見て、あんぐり、とまでは行かずとも口を開いた。
――藤乃蘭が、そこに居た。
「……おおお、王子と姫だ……」
横で蒼依が変な事を口走っている。
けれど、今回ばかりはバカに出来なかった。何故か――私の目にも、そう見えたからだ。
「あれ、さっき蘭ちゃん髪の毛ほどいてたのに結んじゃったのかぁ。でもこっちも可愛いなぁー」
なんていう蒼依の横で深く溜息をついた。
窓際の席に、黒縁眼鏡の黒髪の男子生徒と、茶色のゆるふわウェーブを二つにくくった女子生徒がお弁当を広げている。
ただ、それだけの光景なのに、男の方が騎士のような服に、女の方がドレスを着ているように見えたのだから相当脳みそが腐っている。……蒼依の親友を長くやり過ぎて毒されたのだろうか。
「あの、渡辺君」
「何ですか?」
「そ、その……お弁当の味、……どう?」
「……美味しいですよ」
「ほ、本当?! あっ、あのね、それわたしが作ったの!」
「へぇ……自分で弁当作ってるんですか?すごいですね」
「そ、それほどでも無いんだけど……」
「おいいいい!!!聞いたかあ!!蘭様はご自分でお弁当を作られているそうだぞ!!」
「流石だあああ!!!」
廊下で蘭様ファンの男子が雄叫びをあげる。
その横では、秋を好きだと公言していた女の子達が、今にもハンカチを噛み締めて走り出しそうな顔で教室の中を窺っていた。
「弁当手作りですって?!そんなの嘘に決まってるじゃない!渡辺君、だまされないで!!」
「でも調理実習とかでもすごい手際良いって聞いたよ」
「じゃあ、本当に?!」
なんて会話もちらほら聞こえて。
蒼依がそれを聞いて噴出した。
「ちょっ、と、やば、ツボにハマった!王子と姫と、ファンクラブ、それを妬む女の子達、ってそれなんて二次元?!ゲーム?!やっぱりさっきのアレで惚れて、お礼にお弁当を渡したってトコ?!すごい!行動が早すぎるよ蘭ちゃん!!恋愛フラグ立てまくりたいんだね!!」
「……蒼依、保健室行く?」
空想が妄想に変わった友人の頭を心配して、肩をぽんと叩いた。
「行かないよ!アレを見逃す手は無いよ!あっ、マキ先生マキせんせーいい!!!」
バババババッと手を振って廊下向こうの牧原先生を呼ぶ。……さっき別れた所だと言うのに、また呼ぶのか。
蒼依の呼びっぷりに異常事態――まぁ、ある意味あっている――だと思ったのか、先生はすごい勢いでやってきて。
「……おおおお!!すげーな!!」
あろう事か、携帯を取り出してムービーを撮り始めた。教師がそんなのでいいんですか。
それに倣って周りの数人、蒼依も勿論同じようにして携帯を取り出して各々にデータフォルダを埋めていった。
「ゆ――じゃなかった、新城はいいのか?特大スクープなんだぞ?あの蘭様がとうとう恋に落ちたんだぞ!?」
「……興味無いですから」
――アンタまで“蘭様”ですか。
「なんだぁ、流行に乗らないと置いてかれるぞー?」
わしゃわしゃっと頭を撫でられる。
やめてください、と手を払いのけると、廊下から中を覗く人達の間から教室に入って、自分の机に向かった。
幸い王子と姫が居る空間とは離れているのでここは好奇の目には晒されない。
――それでも、やっぱり教室の中には居たくなかったので、弁当箱を置くと読みかけの本を持ってすぐに廊下へと出る。
蒼依はまだ興味津々にそれらを見ていたので声はかけず、一人、静かな空間を探すのだった……。
昼休み、授業の合間の時間、放課後。
その日全ての空き時間に彼女はやってきた。
誰がどう見てもその目にはハートが浮かんでいる。……可愛い彼女は、恋をして更に綺麗になる。
「渡辺君の家はどの辺りなの?」
「僕は小坂井の近くですが」
「まぁ!わたしの家、近いみたい!―― 一緒に、帰ってもいい?」
「……いいですけど」
パアッと輝く彼女の笑顔を曇らす事なく、秋は頷いた。
途端、周りの女の子達が落胆の色を示したが、それは届かなかったらしい。
それにしても――今から彼らが帰るんなら、ちょっと時間ズラして帰ろうかな……。
一応幼馴染なので家は近い。つまり、今から帰ると同じルートを歩く事になりかねないのだ。
「……本でも読むかな」
昼休みは結局、また雨の屋上に戻っていた。
人も来ないし、雨音が学校の喧騒を消してくれたのがなかなか良かったのだ。
とりあえず帰る用意をして、それから屋上に向かおう。
その時、ガタンッと音がして窓際の席から彼が立ち上がったのがわかった。反射的にそちらに顔を向けてしまう。
――立ち上がった事で、藤乃さんとの適度な身長差がわかり、近くに立つ二人は……お似合いだった。
ズキン、と胸が痛んで顔を逸らした。
今まで色んな女の子達が周りに居た時とは全く違う、鋭い痛み。
あまりに二人がお似合いに見えたからだろうか――兎に角そんな状態を見ていたくなくて、彼らが教室から出る前に席を立って、足早に屋上へ向かった。後ろは、振り返らなかった。