「一体、どうしろと……?」
 早朝。何故か既に誰もいなくなってしまった家の中で、美沙君は呟いた。その手には、いつもの黒ずくめの服とは違う、鮮やかな色彩のセーターとスカート。空っぽになったクローゼットの前で立ち尽くしていた。
「ってことは何か? 今日はこれを着ろってことなのか……?」
 クローゼットの中は空っぽ。つまり、今現在手の中にある服しかないわけで。少し……いや、かなり抵抗があったものの、出かける予定のあった美沙君は渋々服に腕を通した。

 事の始まりは、数日前にかかってきた一本の電話だった。
「やっほー、美沙。相変わらず仏頂面かましてんの?」
 かけてきた相手は親戚のお姉さん。名前を木下奈央(きのしたなお)という。碧さんの家系の方の親戚で、美沙君の従姉妹にあたる人だ。ちなみに年は今年23歳。現在デザイナーの勉強をしているらしい。
「奈央姉ちゃん……、そっちこそ相変わらず変な服作ってんのか?」
「やっだぁ、美沙ってば!
 あたしの可愛らしい服を評価出来ないアンタなんかに、そんな事言われたくないわよ〜」
 あくまで面白そうに、電話の向こうの人は言った。まぁ、電話越しなので顔はわからない。もしかしたらこめかみをぴくぴくさせてめちゃくちゃ怒っているのかもしれないのだが。
「生憎だが、二度とあんな服を着せられたくないからな。……で?何か用なのか?」
 美沙君は不味い物を食べた後のような顔をして、見えない相手に向けて舌を出した。以前……と言っても、とても昔なのだが、奈央が作った服を無理やりに着せられた事があるのだ。その時の思い出は酷く嫌な思い出として今も美沙君の頭の中にこびり付いている。
「あ、あのさ。お姉さん、呼んでくれる?」
「母さんか? うむ、それじゃちょっと待っててくれ」
 そう言って、内線ボタンを押すと台所で料理をしていた碧さんの所へ受話器――子機だから持ち運び出来るのだ――を持っていった。
 ちなみに、奈央が碧さんの事を「叔母さん」と呼ばずに「お姉さん」と呼んでいるのは……み、皆さんおわかりかもしれないが、碧さんが注意したからだ。
『あらやだ、奈央ちゃんってば。お姉さんでしょ?お・姉・さ・んv』
 と昔、それも物心が付き始める幼稚園に入る前に。……小さい子供には優しい笑みで凄まれるのが怖かったのであろう、今でも律儀に「お姉さん」と呼んでいるのだ。

「母さん。奈央姉ちゃんから電話だ」
 フライパンで何かを炒めていた碧さんに受話器を手渡す。そして「油が飛ぶから向こうで話してくれ」と言って、台所から追い出した。
 台所から碧さんの姿が完全に消えたのを確認すると、美沙君はフライパンに手をかけた。無論、「母さんの為に炒めてやるか!」等という親孝行精神ゆえのものではない。
 中身が――フライパンの中身がアレだったから。
 美沙君はフライパンを持って素早く勝手口から裏庭へ出ると、庭にある生ゴミ埋めに投げ捨てた。
「……ふぅ、これで今日は大丈夫だな」
 毎日在りとあらゆる手でカリフラワーを食卓にのぼらせようとする碧さん。美沙君はその度に気づかれないように捨てているのだ。何とも、罰当たりな行為ではあるが。……しかし、食べた後の事を考えると棄ててしまったほうが良いのかもしれない。ついでに言うと、守山父も同じように毎日にんにくと奮闘している。
「ご苦労様、美沙。……今日は許してあげるけどね、次はダメよ?」
「ふっ、次なんてあるはずが――ん?」
 ため息を吐いて、額に出ていた汗を拭った後、聞こえてきたのはきっちり台所から出ていったはずの碧さんの声だった。しかも、あの台詞だと全てを見ている。
「な、なな、なななな!! ……いやっ、これはっ、そのっ。ほ、ほら!ちょっとこげてたから!」
「ふふ、だめよ美沙。でもね、今日は許してあ・げ・るv母さん優しい〜」
 顔の前で指を振った後、小さく笑って碧さんは言った。
「だから勿論、母さんの言うこと聞いてくれるわよね?」

 そんなわけで、美沙君は碧さんの条件を呑むことになった。
 その条件とは――近くにある(と言っても電車を乗り継いで30分くらいの所だが)遊園地でやるファッションショーのような物に出ろ、というものだった。しかも、美沙君の頭の中にこびりついて離れない苦い思い出がある奈央の服で。
「……じょ、冗談だろ? 大体ファッションショーってのはモデルさんが居るだろうが!」
「あら、条件を呑むって言ったでしょ?そのかわり1ヶ月食卓に上らせない、っていうのと交換で」
「う、呑むとは言ったが……そんな事だとは思わないじゃないか!断るっ!」
 腕を組んで「断固拒否!」と言ったような表情をする美沙君。すると、碧さんは心配そうな顔つきをした。
「そう……それじゃ奈央には断っとくわ。あぁ、これからの食費を考えると……はぁ」
「断ってくれるんだな?! ……でも食費って何かあるのか?」
 父さんが解雇されたとか?と美沙君が腕を解きながら訊く。
「え? いや、ね。これから毎日カリフワラーを買わなきゃいけないんだもの」
 ぴくっ
「それにまだレパートリーも少ないし……」
 ぴくくっ
「それにね、カリフワラーって意外と高いのよ。でも仕方ないわよねぇ……ねぇ、美沙?」
 ぴききききっっ
 ふぅ、とため息を付きながら美沙君を見る碧さん。美沙君はと言うと何故か足を一歩出した状態で(逃げる体制)固まっている。しかし、首から上は動かせるようだ。
「――そ、それは……何だ、その……脅迫か?」
「ま、脅迫だなんて。違うわよ、ただ現実的な話をしてるだけ。ねぇ、美沙、どうしようか?」
 内心は物凄く黒い笑みでニヤけまくっているのであろう碧さんは、如何にも母親らしく(?)娘に問いかける。
 すると美沙君は耐え切れなくなったのか、突然笑い出した。
「ふっ、ふ、ふふふふふふふ」
 そして碧さんの肩にぽんと手を置いた。
「……すいません、行かせて頂きます……」



 * * *



 まぁ、そんなわけで冒頭に戻るわけだ。
 美沙君が空っぽのクローゼットの前で立ち尽くしている日はその、遊園地でのイベントの日なのである。
 渋々服を着た後、同じように誰もいないダイニングに用意された朝食を一人で食べ、何故か用意周到に玄関に置いてあった紙袋とその他諸々――俗に言う身嗜みチェック用品とかだ――を入れた鞄を持って、美沙君は家を後にした。
 向かう先は遊園地。このクソ寒い中、人が集まるのかよ?等と思いながら、電車に乗った。
「……ったく、ふぁっしょんしょーだの何だの、何も話して貰ってないじゃないか」
 電車に揺られつつやってきた遊園地の前で、美沙君は立ち止まった。チケットを買う為だ。
 やたらと人が多くて並ぶのも一苦労。しかも、何故かカメラやらビデオやら記録をする為の機器を持っている人がやけに目につく。
 自分の番まで回ってくると、すぐに入場料だけを払いチケット買う。そして、美沙君は中に入っていった。



「ねぇ、お姉さん。本当に美沙、来るのかしら?」
 ここは控え室の一室。奈央と碧さんと守山父こと守山滋、そしてあと一人……男性が立っていた。
「大丈夫よ、安心して。来なかったらどうなるかわかってるから、絶対に来るわ」
 それに絶対に来てくれないと……ねぇ?と碧さんは奈央と視線を合わせつつ、微笑んだ。
「あ、それより猛。アンタ、ちゃんと連絡してくれたんでしょうね?」
 先ほど“男性”と称した人はどうやら猛という名前らしい。
 その猛は、親指を立てた手を奈央の方に向けながら、力強く言い放った。
「あぁ、大丈夫!誠吾経由で伝えてもらったハズだから!」
「へぇ、誠吾……って誠吾……?! うあ、ホントに大丈夫なの〜〜?」
 奈央は頭を抱えた。ちなみに誠吾ってのは例の署長の事である。親戚だとか幼馴染だとか言うような関係ではないのだが、結構前から親しい付き合いがあるようだ。
「大丈夫だろう。総監は伝えることは伝えてくれるだろうから……」
 と少し不安げだが、守山父もフォローする。
「……うー、ま、兎に角来てくれるのを祈るだけって事かぁ」
 奈央は困ったような顔で頭を掻き毟った。

「あの、すいません。木下奈央さんに会いたいんですけど……」
 その頃美沙君は控え室の近くまで来て、奈央の部屋の場所を訊いていた。
「木下奈央……?ちょっと待ってねー、……あ、えっとね、23番っていう札がかかってる所ね。この次の角曲がったらたぶんわかると思うわ」
「どうも有難うございます」
 教えてもらった通りに進むと、その通りは確かに扉に札がかかっていた。
「23……23っと……」
 一つ一つ確認しながら、通路を進む。そしてやっと20番台まで来た時……人に声をかけられた。
「あれ?もしかして、守山さんやないの〜?」
 そう言われて振り返ると、そこには少しだけ見覚えのある……自称“尚吾の恋人やね〜ん”の神上亞子奈(かみうえあすな)が居た。
「――あー……えっと、神上さん?」
「うん、よう覚えててくれたな〜。あたしなんかすぐ人の顔忘れるねんけどな〜」
 ぱたぱたと小走りにやってくる亞子奈。その服は赤を貴重としたとても大胆なドレスのような感じで、上にパーカーのような物を羽織ってはいるものの、物凄く寒そうな格好だ。
「こんにちは。神上さん……すごい服ですね……」
 その大胆なドレスを見ながら、美沙君は苦笑した。
「そやろ?でも友達に頼まれてな、どうしても断れへんかったんや。それにさ、例のイベントもあるやろ?ちょっと興味あってな〜」
「例のイベント……?」
「あれ、なんや?知らんで呼んだん?……あたし、てっきり二人はデキてるんやと思ってたんやけど」
 心なしか嬉しそうな表情で亞子奈が言った。
「呼んだ?誰をですか……? ていうか、デキてるって誰とですかっ?」
 わけのわからない事を言われ、美沙君は焦りの為か少し頬を赤くさせている。というよりも「デキてる」の言葉を聞いて、赤くなっているのかもしれないが。
「いや、知らんのやったら別にええんやけど……そうかぁ、あたし勘違いしとったんやなぁ……」
 顔の前ではたはた手を振って、一人ぶつぶつ呟く亞子奈。美沙君は話を流されたのと、わけのわからないのとで少しむっとして言った。
「何なんですか? ちゃんと言ってください」
「あ? え……いやぁ、あの……」
 それでもまだ言いよどむ亞子奈に、美沙君は掴みかかりそうな勢いで詰め寄った。
「別に驚きませんから。ていうか、むしろ早く言え」
 掴みかかりそう――と上には記しているが、実際には“既に掴みかかって”いた。しかも敬語が消え、少しだけだが、鼻息も荒い。うーみゅ、怒っているらしい。
「わ、わかったから!離してぇな!」
 突然掴みかかられ、至近距離で凄まれたのが怖かったのだろうか。ほんのちょっぴり涙目になった亞子奈は、掴まれた腕を摩りながらため息をついた。

「あんな、このファッションショーな、最後にイベントを入れてるらしいんよ」
 ホントに何も知らんの?と再度確認する。けれど、美沙君は首を縦に振るばかり。
「そう。 で、そのイベントな。今日はアレやん?ホラ、バレンタインってやつやろ?だからこれに出るモデルさんやあたしみたいな即席モデルとかは、好きな人とか恋人とか呼んでんのよ。あー、ここまではわかるやろ?」
 こくこく
「ん、なら良し。んでな、そのイベントってのが……ほら、何つーか愛を確かめ合うってーか……何や、その、告白したりするヤツらしくってな?もうモデルさんらきゃーきゃー煩いで? ホラ、うっさいの聞こえるやろ?」
 確かに、耳をすませば……なんて事をしなくても十二分に聞こえてくる黄色い悲鳴(?)。そういう系の声をあまり好まない美沙君は少し顔をしかめた。
「でもそれがどう、私に関係が? 私は誰も呼んでいない筈だが」
 と、完全に敬語が消え去った美沙君が首をかしげた。すると、亞子奈は驚いたように訊いてきた。
「何言うてんの! 守山さんは尚吾呼んだんやろ? だってあたしが誘ったときにそう断られたで?」
「……は?」
 自分の知らない事をばんばん口にする亞子奈に、美沙君は詰め寄ることも忘れ、ただ唖然とした顔つきで立っていた。
「何て言うたかなぁ? 尚吾んとこに誘いの電話かけたら、尚吾の上司って人にそう言われてなー。いや、だからあたしてっきり二人は付きあっとるんやとばっかり……」
「上司?」
 まさか、“守山警視”とかじゃないよな?と美沙君は心の中で呟いた。
「うん、すごい偉そうな口調でな……んー、確か……久那山(くなやま)やとか、衣山(きぬやま)やとか……」
「もしかして……、鉦山(かねやま)?」
 嫌ぁ〜な感じを読み取ったのか、額に手を当てながら美沙君が呟いた。
「あぁ、そう! うん、鉦山やったと思うわ。
 その人がな、『はっはっは、このバカ山下は守山美沙とラブラブヘイヘイ!だから、君とは一緒に行けないのだよ!何だったら僕が代わりに行ってあげなくもないんだけどね、僕は生憎、館山君一筋なんでな!ふっ、でもまた何かあれば何時でも電話するが良い!はっはっはっは ――』って。
 なんやもう、めちゃめちゃ腹立ったから途中で電話切ったんやけどな」
 何なんやろな、あの人、と亞子奈は言った。美沙君はすかさず「ありゃ、人じゃねぇ」と答えた。
「ま、そゆことなんや。……でも、守山さんは誘ってへんねやろ?」
 ちょっとばかし瞳をキラキラさせながら、美沙君に訊いて来る。
「あああ、当たり前だろう! 何で私があんな好きでもないヤツを誘わねばならんのだ!」
「それじゃぁさ。尚吾はあたしが貰ってもえぇって事なんやよね?」
 キラキラさせる瞳を一層光らせて、亞子奈は言う。そして、実に要らない台詞をくっ付けた。
「それにさ、守山さんよかあたしの方が尚吾も好きやと思うし!」

 ……ぴくっ

 人一倍負けず嫌いの美沙君センサーに、その言葉はがっちりと引っかかる。
「……“守山さんよかあたしの方が”だと……?」
 小さく、底から聞こえてくるような低い声だったせいか、亞子奈には聞こえていなかったらしく――さらに続ける。
「やっぱあたしら恋人やったんやし〜、年が近い方が何かとえぇしな!
 尚吾の好みだって、絶対あたしの方やし!」

 ……ぴきっ

 先ほどから何かに亀裂が入るような音がしているのに気付かないのか。音の発信源に一番近くに居る人は、やけに無邪気に言ってきた。 
「ってことで、尚吾はあたしと出る、でえぇよな〜♪」
 ……が、
「――だめだっ!!」
 と、美沙君は言い放った。

「……え、だめ? 何でぇ?!だって、守山さんは尚吾とは全然関係ないんやろ?」
 思いがけない言葉に、亞子奈は驚いた。そして頭の中を「?」でいっぱいにしながら問いかける。すると、美沙君は顔を真っ赤にして、顔の前でちっちっちっと指を振った。
「さっ、さっきは、関係ないって言ったが……じ、実は……その……私と山下はラブラブなんだ! だから今日も誘ったし、か、神上さんに渡すわけにはいかないのであって……なんだ、こう、こっ、こっ、ここ恋人同士だから……!!!」
 勿論、口から出まかせ、である。あんな風に言われたのがやたらむかついたようだ。もしかすると、怒りに任せて美沙君自身も自分で何を言っているのかわかってないのかもしれない。――まぁ、激しくどもっている所を見ると、少しは理解しているようだが。
「……そ、そーゆー事だから、山下は私と出るのだ!」
 そしてそのまま、くるっと向きを変えると美沙君は再び「23」の番号札を探し出した。



「――なんや、守山さんって意外と可愛いんやなぁ」
 遠ざかっていく美沙君の背中を見ながら、亞子奈が呟いた。
「尚吾もえぇ子に好かれて……羨ましいなぁ……っと、こんな事してる場合やないって!」
 何故かおせっかいなおばちゃんのような台詞を吐きながら、ふぅとため息をつく。そして、パーカーから取り出した携帯電話でメールを書く。
 そのメールの文章は――

『 脈 ア リ  』

 ……どうやら、亞子奈も仲間だったらしい。
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