灰色の髪に、突き出た黒い耳。
 ちょっと切れ長の瞳で、でも何気なくお茶目な彼は、刳灯といった。
 いつもは損な役回りで脇役な彼も、時々は主役になってもいいかもしれない。



 さて、ここで刳灯という人間を少し紹介しておこう。
 彼は前述の通り、灰色の髪に、突き出た黒い耳、そしてちょっと切れ長の瞳のなかなかハンサムなヤツだ。 “突き出た黒い耳”というのは、所謂「狐耳」と呼ばれる類の物で、これは彼の種族的な特徴でもあった。
 性格は至って温厚――ただし、例外あり。
 そのうちの一つは、実の兄に対するもので。
 刳灯のお兄さんは華南〈かなん〉といい、かなりの弟バカなのだ。年の離れた兄弟、という事もあるのだろうが聊か度が過ぎる。……結果、弟からはかなり辛辣な態度を取られることが多いとの事で。まぁ、華南から見れば「くーちゃんってば怒っても可愛いんだからぁっ」としか思えないらしいのだが。
 そしてもう一つの例外は、彼の想い人に関係するものだ。
 彼の想い人はフレアといい、彼のクラスの委員長を務めていた。 茶色の髪をポニーテールにしていて、ちょっと性格が悪かったり、口がきつかったりするけれど、総合的に見ればなかなか良い人……だと思う。
 そのフレアに、彼はベタ惚れなのだ。 曰く、ちょっぴり冷ややかな目で見られると心臓〈はぁと)がドキドキする。 曰く、よく発動される魔法に巻き込まれた時に愛のムチだと思ってしまう。 曰く、時たま見せる笑顔を見ると思わず抱きしめたくなる。 ――などなど。
 聞いているだけでしばき倒したくなること間違いなし、である。
 でもそんなふざけきった彼にも、お約束の如く、恋敵がいたりするのだ。
 ここでは詳しくは言わないが、その恋敵の名前はココロといい、その惚れっぷりは彼に勝るとも劣らなかった。しかも、フレアとは長い間旅をしていたらしく、時々二人だけの世界に突入する事もある。
 ――つまり彼は、自分の邪魔をしたりする人へは容赦なく攻撃してしまう人なのだ。
 ……その攻撃の全てがヒットしているわけではないのだが。



 * * *



「かったるいっ♪ かったるい〜♪」
 4時間目の数学の授業。担任の守山先生が黒板に向かって公式を書いていると、そんな声が聞こえてきた。
「……ナナ、お前ねぇ」
 すかさず隣に座るフレアが呆れたように言った。
 そう、先ほどふざけまくった事をほざいたのは、ナナだったのだ。
「えー、だってさぁ? こんな雨ん中、こんなクソだるい数学なんて嫌んなるじゃん?」
 ぶーぶーぶー、と肘をついて窓の外へと視線を向ける。
 外は、これでもかというくらいにザーザー降りだった。
「いやっ、そりゃわかるけど、幾らなんでもそんなホントの事言っちゃ――」
 ナナより2つ前の席に座る美沙君が話に割り込んできて、でもすぐに慌てて口を押さえた。
 自分の方がもっと酷い事を言っているのに気づいたのか……、はたまた教卓の影に隠れて泣く哀れな父親の姿を見たからなのか……、どちらかはわからないが、兎に角その言葉の全てを言う前に口は閉じられた。
 その様子を見て、大げさにため息をついた山下君。
「……先生、泣かないでくださいよ。 僕等にその公式教えてくれるんじゃなかったんですか?」
 守山先生から見れば救いの言葉を、何処か呆れたように投げかけた。
「そっ、そうだな! うむ、これは今度のテストにも出る重要なところだから先生は絶対に何があっても、君達に教えてみせる! よしっ、先生頑張るからな!
 さて、ここの式だが――」

 キーン コーン カーン コーン
        キーン コーン カーン コーン

「きりーっつ 礼っ!」
「「ありがとうございましたーっ!」」

「……こ、ここの公式だが――」
 その場には既に誰一人として、守山先生の話を聞こうとする者は居なかった。



「ね、フレアっ。 今日もおべんと?」
「あぁ、そうだけど。 ……ナナは今日も重箱か?」
 4時間目が終わるとすぐに給食時間……もとい、おべんとタイムがはじまる。 ここR学園には“給食”というものがなく、生徒はお弁当を持ってくるか、食堂で食べるか、になっているのだ。
 余談だが、R学園の食堂は全国でも名高いレストランの一流シェフを引き抜いてきているらしい。 よってAランチと頼めばフランス料理のフルコースが、Bランチと頼めば別室の回るテーブルで豪華な中華料理が、Cランチと頼めばそれはもう口では言い表せないほどの素晴らしい料理の数々が出てくるのだ。
 ランチじゃねーじゃん、と思うのも無理はない。 でも仕方ないのだ、学長の趣味なのだから。
「ううん、違うよ。 今日はサンドイッチだからね〜、ほら毎日あんな和食ってウザったいじゃんか」
 はたはたと手を振ってあくまでもにこやかに言い放つ。
 フレアは心の中でナナの家の料理人に同情した。 そして、隣でいそいそとランチョンマット――どうやら守山家ではランチョンマットを使う習慣があるらしい――を広げる美沙君の方を向く。
「美沙は? 今日もカリフラワー入れられそうになったりしたのか?」
「ふっ、……と、当然だっ……」
 口調は強くても、顔はかなり可哀想な事になっている。 今日も死闘を繰り広げていたのだろう。
「……碧先生も飽きないよな、ホント」
 むしろ執念深いって言うのか?、そんな事を思いながらフレアは弁当の蓋を開けた。

「美味しかったー! ごちそうさまっ」
 ぱちん、と手を合わせてナナが言った。
 ん? 食べ始めてから一行分しか時間が経ってないって? ――き、気にするな!それが小説ってもんだっ!
「ごちそうさま、っと」
 同じように手を合わせてフレアが言った。 一瞬合わせられ、軽快な音を叩き出したその手は、既にお弁当の蓋をしめ、それを袋に仕舞おうとしているところだった。
 そして仕舞い終わったとき、ドアの所から見知らぬ誰かに声をかけられた。
「フレアさんって居るよね?」
「はい? 私だけど……何か?」
 少しだけ首を動かしてドアの方を向く。
 見知らぬ誰かは、ほっとしたような表情をして言った。
「守山先生がプリントを取りに来て欲しい、って言ってたよ。 職員室に行ってね」
 そして、それじゃ私は……、とすぐに姿を消した。
「……プリント?」
 フレアは無意識にそう、口にした。



 所変わってこちらは食堂。 例のふざけきったランチを食べれる、その場所だ。
 しかしAランチやBランチが非常識極まりないものだとしても、それしかない、というわけでもないのだ。 無論、うどんやらラーメンやら、他にもヒレカツ定食に焼き魚定食……といった極々普通のモノも食べれる。 むしろそっちの方が本業だ。 ――ちなみにその“本業”系を作っているのも、一流レストランから引き抜かれた一流シェフ達である。
 そしてその一角に、彼等は居た。

「う〜ん、相変わらずここの御飯って美味しいねっ」
「確かに。 レシピとか教えてくれないかなぁ……?」
「まぁ、食べれなくはない」
 三者三様、ココロと山下君、そして刳灯は自分達の食事にそうコメントした。
 ついでに言うと、ココロはからあげ定食で山下君はカルボナーラのスパゲティ、刳灯は天ぷらうどんだった。
「ホント刳灯ってば夢のない発言だよね。 もうちょっと人を褒めるって事、覚えたら?」
 いつもは割りと可愛らしい口調で話すココロだが、刳灯に向けて言う言葉は毎回棘のあるものだ。しかも最近は小さい姿ではなく、人間サイズで居ることが多いため、余計にきつくなってきている。
「……俺の前以外では可愛い子ぶってるお前に言われたくない」
「はっ、別に刳灯の前でだけ素ってわけじゃないもん。 わ・ざ・と・こうしてるだけっ」
 一触即発。
 まさしく、その状態である。
 言わなくてもわかるかもしれないが、席の座り方は、ココロ・山下君・刳灯、だ。 両者に挟まれた山下君は額に汗を滲ませ、何とか二人を宥めようとしていた。
「ま、まぁ二人とも。 食事の時くらいは喧嘩したりするのやめよう? な?」
「……尚吾、口出すなよ」
「そうだよしょうちゃん! 黙っててよね」
 実に、不憫な役回りである。
 だけども今回は別の形によって救われることになりそうである。
「おぉぉっ、そこに居るのは例の三人組ことココロと尚ちゃんとくーちゃんではないかっ!!」
「いや、何でそんなに説明臭いかな」
 両手にトレイを持ったファルとビスターだった。

「それで? 毎度の如く二人は痴話げ――げえぇっほんげっほん……喧嘩、をしていたと」
 あからさまに言い間違えようとしたファルは鋭い視線を向けられ、すぐに言い直した。
「僕等がこの学園に来てからそんなに間が空いてないけど……何で二人はそんなに仲が悪いの?」
 ビスターが不思議そうに言った。
 するとファルが目を見開いた。
「ちょ、ちょっと待ってビスター。 まさか、気づいてなかったのかよ?」
「……何をだよ?」
 ガ タ ン ッ
 首を傾げて返した言葉に、ファルが突然椅子を倒して立ち上がった。
 そして口元に手を当てて、大声で叫ぶ。
ど、ど、鈍感だわっっっ!!!!
 何ゆえ女言葉かね、と突っ込みたくなる気持ちもかなりあるがそれはとりあえず置いておく事にしよう。
 大声で叫んだ事によって周りの注目を集めてしまうかもしれない、そう思ったビスターは怒りのせいで若干熱くなった頬を感じながら、ファルの腕を引いて無理やりに座らせた。
「ばっ、大声を出すな恥ずかしい! てか僕の何処が鈍感なんだよっ」
「ど、ど、ど、っ、れ、み、ふぁ〜っ!!!」
「……………… あー、ごめん、そのギャグ、微妙」
 ファルがとぼけて言ったギャグ(?)を聞いて、ビスターは一瞬固まった後、そう返した。
 確かに先ほどのは笑えない、それどころか口元が不自然に吊り上ってしまいそうになる程だ。
「――あ、あの、もしもーし?」
 ほぼ“二人だけの世界”に行ってしまった二人を、取り残された三人は呆れたような顔をして元の世界に連れ戻した。
「あ、ごめん。 で、何で仲が悪いの? ……ただ性格がー、とかじゃなさそうなんだけど」
 にこっ、と決してファルには見せない笑顔でビスターが言う。ファルはそんなビスターを見てまた「鈍感キングー」と呟いた。……そのすぐ後に蹴りをお見舞いされたのは言うまでもない。
「……別に仲が悪いってワケじゃないんだけどね。 何ていうか、その……」
「仲が悪い、良いの問題じゃねーんだよな……」
 言い難そうに頬を掻いたり、そっぽを向いたりする二人に疑問を覚えつつ、その視線を山下君へ向ける。
「――所謂、恋敵〈ライバル〉ってヤツなんだよ二人は」
 僕も最近知ったんだけどね、と付け加え、大げさにため息をつくとその相手を伝える。
「二人とも、フレアの事が大好きなんだって」
 肩を竦めて、そう言った。



 * * *



 フレアは、怒っていた。
 あんなに不甲斐無いヤツが本当に教師なのか?、と思わずにはいられなくて。
 ……兎に角、怒っていた。

 ガラガラガラ
 無言のまま職員室のドアを開ける。普通の学校ならここで「失礼します」だの言わなければならないのだろうが、R学園は生憎普通ではなかった。 よって、普通じゃない入り方が“普通”になっていた。
 キョロキョロと中に入って見渡すとそれぞれ食事をとっているようで、ほんの少し視線を回らせた後、フレアは動いた。
「守山先生」
 愛妻弁当であろうその弁当を涙目でつつく彼の周りには、誰もいなかった。
 というのも、その愛妻弁当には決まって彼の嫌いな食べ物が入っていたからで。しかもそれは弁当には適さない、とても臭いもので。
 ぷぅ〜ん、と焼肉のお供な匂いがしてくるのを感じながら、フレアは1メートル程離れた所までやってきた。
「何かプリントがあるそうですが」
 そう言うと守山先生はやっとフレアの存在に気づいたらしく、「あぁ」と言って引き出しを開けた。
「これなんだが、終学活前に配っておいて貰えるかな?」
「……何ですか、コレ」
 今日は珍しく授業は4時間目までしかなくて、午後は昼ごはんの後に昼休みがあって、その後に掃除。 そして終学活でさようなら、だった。
 委員長の仕事の中には、終学活時に配るプリントを職員室前のボックスまで取りに来る、というものもある。 だから本来なら担任であろうとも、わざわざこういう形で取りに来させることはまずないのだ。
「何、ってプリント――……あーいやっ、ちゃんと説明するからその手の光は勘弁して欲しいような気がするかなっ」
 うっすらと、だがフレアの手が光ったのを見つけたのだろう。
 いつもより10倍は情けない顔で守山先生は必死に言い繕った。

「……そんなに重要な公式でしたか、アレは」
 捲くし立てるように言われた説明を要約すると、つまりはこういう事だった。
 ――今日の授業でやる筈だった物は絶対に覚えとかなきゃダメだから、解りやすいようにまとめたプリントを配って各自勉強してもらう事にした――
 そしてこのプリントが、ソレ、だった。
「数学全体から見ればさほど重要じゃないからもしれないがな、兎に角テスト範囲の分は覚えて貰わなくては」
 如何にも教師らしく言って、プリントをフレアの手に託す。
「絶対に、配るのを忘れないでくれ」
 強い口調で言う守山先生。 この人って時々妙に迫力があるよな、と思いながらフレアは首を縦に振った。
「けど、先生。 終学活には先生も出るんでしょう?何でその時に自分で配ろうと思わなかったんですか」
 至極最もな疑問を口に出したフレアに、守山先生は困ったように返す。
「今日は合同研究会だから、終学活が始まる頃にはもう学校から出てなくちゃいけないんだ。 ほら、だから今日は4時間目までしかないんだぞ?」
「なるほど。 それじゃ碧先生でも来るんですか?」
 碧先生は守山先生の奥さんであり、変クラスの副担任でもあった。
「いや、碧も別の研究会に出るから。 今日は君達だけしかいないんだ」
 だから頼んだぞ、とプリントとフレアの顔へ交互に視線を向けながら、守山先生は言った。
「はぁ……わかりました。 それじゃ用件はこれだけですよね?」
 プリントの束をいくつも抱えて、フレアは立ち去ろうとした……が、
「あ、ちょっと待ってくれ!」
「何か?」
 おずおずと弁当を指差すと、守山先生はちょっと引きつった笑みを出した。
「よ、良かったら例のモノ、食べていってくれたり――」
「しません」
 全部を言う前に、フレアは鋭く遮った。



「ったく、全然聞いてないっての。 いい加減にしろよあのハゲチャビンっ」
 ぶつぶつとかなりの量のプリントの束を抱えながら、フレアがぼやいた。先ほどより量が増えているのは、職員室前のボックスから取ってきた分が追加されたからだ。
「大体あの年であんな好き嫌いをするなんて……信じられん! てか親子揃ってダメ過ぎるっ」
 うがーっ、と聊かフレアらしくない声を発し、雨のせいでいつもよりも滑りやすくなっている廊下を進む。
 そんな風にぶつぶつと言っていたり、プリントが落ちないように腕の中ばかり見ていたのがいけなかったのだろう。 フレアは曲がり角の向こうから人が来ていて、尚且つそのまま進むとその人とぶつかるという事に気づかなかった。
 そして曲がり角まで来た。
 この先の展開は察しの良い方ならお分かりだろう。

 フレアは案の定その人物とぶち当たり、プリントの束をぶちまけて、更に滑りやすくなっていた廊下に足を取られ、その場に派手にずっこけることになった。

「――…………」
 一瞬何が起きたのかがわからなくて呆然としてしまう。
 目の前には誰かの首が見えて、何故か体の両脇にはその人の腕が伸びていて、ついでに言うならちょっと重かった。
 当事者になっている自分では考えても出てこなかったその答えは、客観的に考えてみると面白いほどに考え付いた。
 ――押し倒されてる。
 そう感じた瞬間、フレアは真っ赤になり、ずっと俯けていた顔をあげて、大声で言い放った。
「何処の誰だか知らないが、殺されたくなかったら早くど――」
「フレア、悪いっ。 大丈夫か?」
 フレアが大声で相手に文句を言おうとして顔を上げた時、その相手はフレアの安否を確かめる為に上を向けていた顔を下の方へと向けた。
 そして……

 ちゅ

 お約束過ぎる展開に周りの人は目を点にして。
 当事者な彼等は、その状況を理解できずに居た。
 わかるのは、ただ、その唇に相手のソレが当たっているのだという事。
 フレアがわかっていたのは、その相手が、クラスメートで、自惚れでもなく自分に想いを寄せている刳灯だという事。
 刳灯がわかっていたのは、ただ、案外フレアが小さいんだという事。
 兎にも角にも、その場は静寂に包まれていた。

 最初に動いたのは、非常に微妙なところなのだが、先ほどまで刳灯達と一緒に食事をとっていたファルだった。 その顔は嬉しくてたまらない、といったような表情で、何故か手近の窓の鍵を外して外に飛び出そうとしていた。
 固まってはいたが、その行動をばっちり視界の端で捕らえていたフレア。
 我に返るとすぐに刳灯を跳ね除け、飛び出そうとするファルの足を掴んだ。
「ちょっと待てお前! 今何処に行こうとしたっ、誰に話そうと思ったっ?!?!」
「たぶん今フレアが頭ん中に思い描いた人達、かな♪」
 少し突付けば爆発するんじゃないかというくらいに紅い顔をしたフレアがいつもの冷静ぶりからはとても考えられないようなリアクション……つまり、ぎゃーっ!だの、きゃーっ!だのを言っているを見て、未だ放心状態を抜け出せていない周りの人達はますますその放心っぷりを悪化させた。
 そして刳灯は。
『……やばい、マジで俺ダメだ……っ』
 唇に残る感触を指でなぞりながら、もう片方の手で髪を掻き毟る。その顔は緩みまくっていて、事情を何も知らない人が見れば「大したノロケっぷりで」と言われてしまうような感じだった。
 けれどそのノロケ状態は、フレアの怒鳴り声でいとも簡単に消え散った。
「アレはっ、予定外の出来事だ! 気持ちも何もあったもんじゃないんだぞっ……だから、絶対にアイツ等には言うな!」
 何処か遠くから聞こえてきたその言葉は、限界まで舞い上がった気持ちを最下部まで叩き落した。
 そして音も無くすっと立ち上がると、また音も無く走り去る。
 刳灯が居なくなっていたのに気づいたのは、チャイムがなって、掃除の音楽が流れ出してからだった。



 * * *



 掃除は15分間、そのあと5分の休憩があって、終学活が10分。
 その30分の間、刳灯は教室に戻ってこなかった。

 フレアはその事を気にしながらも頭に思い描いた人達に知られたら……、と一人悩んでいた。
 無論、悩んでいても掃除はちゃんとしたし、終学活もちゃんとやった。 守山先生に渡されたプリントを配ることも忘れなかった。 A4サイズのプリントが5枚、配ったときは随分と騒がしくなったものだ。
「……帰ってこないし」
 刳灯用の5枚のプリントを手にもう誰も居ない教室を歩く。
 皆はもう帰っていて、先ほど口々に別れの挨拶をしたところだった。
「…………渡さずに帰るのはダメだしなぁ……」
 刳灯の場合、家まで届けるという事が出来ないので尚更ダメだろうな、と一人考える。
 するとドアの方でコツン、と音がした。
 反射的に振り返ると、顔を俯けた刳灯が、立っていた。
「刳灯っ! お前一体何処行ってたんだっ、掃除もサボるし、終学活にも出ないし!」
 ツカツカと歩み寄って、手にしたプリントを無理やり押し付ける。
「お前の分だ。 全く、お前が帰ってこないからこうして待っててやらなきゃならないハメになっ――」
「フレア」
 マシンガントークのように相手に口を挟む機会をやらなかったフレアだったが、不意にソレを遮られた。
「な、なんだ……」
 少し詰まって返答すると、プリントを受け取らない代わりなのか、刳灯はフレアの腕を掴んだ。
「なっ、何をっ」
「フレアは俺の気持ち、知ってるんだよな」
 低くもなく、高くもなく、声を荒げることもしない冷静な声で、刳灯は言った。
 フレアはそんな刳灯に圧倒されつつも、小さく頷いた。
「……あぁ、知ってる」
「それじゃ、俺の事どう思ってる? 俺は、一目見たときから、ずっとお前が好きだった」
 答えを言わないと逃れさせてはくれないだろうその瞳に見つめられ、フレアは動揺した。
 確かに刳灯の気持ちは知っていた。けれどそれは決して自分に向けられてはならない物だから、いつかは消えてくれる事を願っていた……でも今こうして面と向かって言われてしまったら、もう消せはしないかもしれない。
 何処かで違う自分が笑ったような気がして、少し力を抜いた。
 ありのままに全てを言えば楽かもしれないのにな、とやはり何処かで違う自分が笑った。
「お前の事は……嫌いじゃない。 どっちか、って言われたらきっと好き、って言うと思う」
「じゃぁ……っ」
 少しだけ声のトーンを高くして、刳灯が言った。
 フレアはその声の変わりように苦笑しながら、ごめんな、と心の中で呟いた。
「でも、そういう対象として見た事は一度もない。 これから先も、ずっと……ないと思う」
「……そうか」
 今度はトーンを一段と低くして、刳灯は頭を垂れた。そして掴んでいた腕をそっと離す。
「少しの望みも――」
「ごめん」
 遮って、先に謝った。
 刳灯はまた「……そうか」と言うと、徐にプリントと鞄を掴んで教室から出て行った。

 フレアは暫し止まっていたが、刳灯の足音が遠ざかっていくのを感じて慌てて廊下に出た。
 そしてある決心をし、遠くなった背中に向かって叫んだ。

「刳灯っ!!!」

 その背中が遠ざかるのを一時止めたのを見て、フレアは続けた。

「いつかきっと話すからっ、そしたらお前の事もそういう風に見れるかもしれないからっ……!」

 一息ついて、少しだけ声の量を下げて、
「だからっ、だから……っ」
 言いたいことが言葉になって出てこなかった。 接続詞ばかりが口から出て、でも!、と続けようとする。

 ふと、遠くから、笑い声が聞こえたような気がした。
 そして、声を張り上げなくても伝わるその声は優しく言った。
「フレアって案外馬鹿なんだよな」
 かろうじて確認出来るその顔は、とても穏やかなもので。
「その話をしてくれるの、待ってるから。 それに俺はまだ諦めたワケじゃないし」
 実際は諦めようとしたんだけど、という言葉は口に出さずに心の中で呟くだけにしておく。
「だから、明日からは覚悟しとけよ?」
 不敵に笑ったその顔は遠くからでもはっきりと、鮮明に見えて。
「ばっ、馬鹿じゃないのかっ」
 一瞬その表情に見とれてしまったフレアは、照れ隠しに悪態をついた。



 * * *



「本気であの子に靡くかと思ったわね」
「そうだな……アレと似てるところが結構あるようだし」
「だろっ? 俺も最初そう思ったんだよな〜」
「にしてもフレアのあんな顔、何十年ぶりに見たんだろうな……」
「ピーマン嫌いな馬鹿は頭の馬鹿なの?」

 傍観者はいずれも過去を知る人達。
 そして、

『アイツが俺以外にいくか、っての』

 自信満々に、誰かがそう呟いた。
アレ、おかしいなぁ……もっと笑える話になる筈やったんですが。
てかくーちゃん主役とか言っときながら全くもって主役っぽくないです。

とりあえず、フレアと刳灯の間柄が少しだけ進展したようですね。

2004.6.8 - 執筆