手に入れたかった幸せは、案外近くにあったのかもしれない。

 幸せとはなんだろうか?
 ふと、そんな事を思ってみる。

 ――幸せとは何か?

  ……僕は答えることが出来ないだろう。何故なら、今まで、今まで生きてきて“幸せ”と思った事がないからだ。“不幸”だと思ったことは山ほどある。いや、むしろそれしか思ったことがないんじゃないだろうか?
 そんな僕に“幸せとは何か?”何て訊くのは間違っていると思う。
 だからこそ、僕はこの問いに答えられないし、誰も僕にこんな質問を投げかけることはなかった。“1+1=2”と同じくらいに正確な、僕とそして僕の周りにあった方程式。
 その方程式が変わったのは、冬になる直前……もう寒い秋の事だった。



「ねぇ、幸せって何だと思う?」
 訊いてきたのは僕と同じくらい年を生きている女の子だった。ぱっちりと見開いた瞳に茶色い毛の可愛い子だった。僕はその容姿に思わず見とれて、質問を聞き逃した。
「ねぇ?聞いてる?」
「……え、あ、あぁ……何?」
 我に返った僕に、その子はもう一度訊いてきた。
「幸せって何だと思う?」
「幸せ……?」
「うん、幸せ。貴方は幸せって何だと思う?」
 尋ねてきたその子に悪意がないのはよくわかった。けれど、昔――大昔に捨てられた僕にとっては少し酷な質問だった。“幸せ”な経験なんて、した事がなかったから。
「そんなもの……どうだっていいだろっ!」
「――何、怒ってるの……?」
 怒鳴り散らすように答えた僕に、その子はキョトンとした顔で答えた。無邪気な顔……たぶん苦労なんてした事ないんだ。苦しい事にあったことなんてないんだ。“独り”じゃ、ないんだ――。
 その無邪気な顔を見てると、無性に腹が立って、僕は塀を飛び越えて逃げた。後ろから声が追ってきたが、それもすぐに消えた。辺りには、僕の走る音だけが聞こえた。

「一体何だって言うんだろ?」
 彼女は、ふぅ、とため息をついた。そして、彼が駆け出して行った方を見ながら呆れたような表情で呟く。結構高そうな塀だけど……随分軽々と乗り越えて行ったなぁ、そんな事を考えながら。
「……ま、いっか。家に帰ろ……」
 彼女は彼が行った方向とは反対の方へ、トコトコと歩き出した。



   この世に神様が居るとしたら……“幸せ”の意味、教えてくれるかな?
   こんな僕でも“幸せ”になれるんだ、って言ってくれるかな?
   ……もし、もし、神様が居たら……僕を“独り”から救ってくれるかな?




 彼は、一軒の家の屋根に居た。
「……逃げてきちゃった……」
 深くついた息。もう寒いから、吐き出した息も白くなる。
 ――誰かから聞いたことある。息が白くなるのは、吐き出した小さな雫がすぐに凍るからなんだって。……ホントか嘘かなんて知らないけど。ホントだったとしたら、何かすごいなぁ。
 彼は何回も口から息を吐き出した。その度に口の前に白い煙が立った。
「ねぇ、お母さん!もう寒いからストーブ付けていいでしょ~?」
 突然聞こえた声。出所は彼が座っている家の中だった。
 彼はそっと窓際に寄ると、中を覗いた。

「……少しだけよ?」
「わかってるって!もう寒くってやってらんないんだよ~っ」
 パタパタと走る音が聞こえて、ドアが開いた。軽くカールした茶色の髪。頭の上の方が黒いところを見ると、どうやら地毛ではなく染めた物のようだった。
「ったく……この寒さだけは耐えられない!」
 そう言いながら部屋に入ってきた彼女は、中に居た先客に向けて鋭い視線を向けた。
「――何でいる……?」
「あ、お帰り~。悪いな、不法侵入させてもらった!」
 ちゃっ、と手を上げるとニヤッと笑う。今しがた部屋に入ってきた人とよく似た顔をしているから……姉妹なんだろう。年齢から考えると、“不法侵入”をした方が妹みたいだ。
「不法侵入て……、泥棒家業には向いてないぞお前」
「大丈夫!本業にする時はもっと上手い事するからっ。心配ご無用さっ♪」

 僕は、暖かそうな部屋の中で繰り広げられる楽しそうな団欒を眺めていた。
「“幸せ”ってこういう事を言うのかな?――それだったら、僕には縁のない話だな」
 僕には一緒に笑いあえるようなヒトが居ないし……、言葉を呑み込んで俯いた。強く激しい、そして凍えるように寒い風が襲い掛かってくる。
「寒い……っ。今年の冬はもうダメかな……」
 震える体を抱いて、窓際からそっと離れた。
 いや、離れようと――した。
 
 ガラガラガラ
「どうも可愛いおチビさん。寒いだろ?中、入るか?」
 開けられた窓、中から顔を出したのは“不法侵入”の妹だった。
「寒っ!!何だって窓なんか開けてんだよ!閉めろっ――と、お客さんなのか?」
 机の上で勉強をしていた姉も彼に気づくと、キャスター付きの椅子を操って窓際まで来た。
「……ったく、早く入れっての。こちとら寒いんじゃいっ!」
 そう言うと、妹は彼を抱き上げて素早く窓を閉めた。ストーブで暖められた部屋が、外気によって一瞬冷える。姉は設定温度を上げると、マフラーを取り出して彼に巻いてあげた。
「寒かったろ?なぁ、寒いよなぁ……。うちのヤツはこの寒い中何処に行ったんだか」
 ため息をついた妹に、姉は無言で首を縦に振った。



「はぅうぅ……寒い!!あぁ、もう寒いのは苦手なんだってば!」
 トコトコと塀の上を歩きながら、彼女は愚痴を漏らした。近くには誰も見えない。――何処かに“居る”とは思うのだが……気配だけで姿は見えないのだ。
 ――彼等は、寒くないのだろうか?
 彼女はふとそんな事を考えた。自分だったら寒かったら布団の上やストーブの前に行く。兎に角、暖かい場所……あぁ、昼間だとサンルームもよく行く場所だ。夜だって、母さんと一緒に寝るからそんなに寒くないし。



   自分は、恵まれていると思う。
   小さいころに捨てられたあたしを救ってくれた母さん。
   わがまま言って困らせたり、いたずらして怒られたりするけど……大好きな母さん、家族。
   あたしは、恵まれて、いる。




「お前、名前何て言うんだ?」
 僕を撫でながら“不法侵入”の彼女は訊いてきた。僕は声も出ないほどに震えていたから、近くに置いてあった文字を指差して教えた。
「E……ill……。そっか、エイルって言うんだ。いい名前じゃねーか」
 震える腕で精一杯指差したアルファベット。彼女はそれを理解して、すぐに正解へと導いた。僕はその言葉に小さく頷いた。“いい名前”、……すごく、嬉しかった。
「それにしても、すごい寒そうだな……。カイロでも持ってこようか?」
 椅子の背もたれに腕を乗せ、お姉さんと思われる人が訊く。妹さんは無言で頷く。お姉さんはパタパタと部屋を出て行った。僕はそれを眺めながら、首に巻いてもらったマフラーを抱きしめた。……それほど寒かった。

 カリカリカリ
 僕が入ってきた窓が小さく揺れたかと思うと、さっき僕に質問を投げかけてきた子が窓をこすった。
「あ、帰ってきたな。ったく、この不良娘がっ!」
 口調は厳しいものの、心底ほっとしたような表情をする妹さん。僕は入ってきた子を少し見ると、マフラーで顔を隠した。……ちょっとだけだけど、恥ずかしかったから。
「……ほら、カイロ持って来てやったぞ。あ、帰ってきたのか。不良だなぁ」
 お姉さんは妹さんにカイロを渡すと、その子を抱き上げてまた部屋を出て行ってしまった。抱かれて部屋を出て行く時、少しだけ目があったような気がした。

 ……なんで? 何で居るんだろう?
 今日、あたしが訊いたヤツ。逃げたヤツ。……やけに黒い体が、目についたヤツ。
「あーぁ、もう冷え切ってるじゃないの。今頃お帰りなんて子、嫌よー」
 母さんの、母さんが鼻の頭に指を突きつけて言ってきた。あたしは無言で俯いた。その様子を見たのか、あたしを抱いてるお姉ちゃんと母さんの母さんは二人して笑った。
 あたしも、少しだけ笑った。
「――ニャン」






* * *





   黒い子は、嫌いですか?
   黒い子は、ダメな子ですか?
   黒い子は、全員捨てられるんですか?
   ――それとも、僕だけ、ですか?




「わぁっ、皆綺麗なロシアンブルーだわ!すごい素敵……」
「ふぉっふぉっふぉ、理恵様はロシアンブルーがお好きですからなぁ」
「えぇ、そうよ、じい。私はロシアンブルーが大好きなの!!ロシアンブルーが――あら?」
「……どうかされましたかな?」
「ねぇ、じい。あの子……うちの子なの?……何なの、酷く醜い黒色……」
「理恵様、あの子もうちの子でございますよ。ほら、父親が確か雑種……だったかと」
「何てことなの!!私はロシアンブルーしかいらないのよ!捨ててきて!醜いものはいらないわ!」
「し、しかし捨てるというのは……」
「あら、何?捨ててこないわけ? いいわよ、そう言うのなら此処で殺すわ」
「まま待ってください理恵様! わかりました、捨てて参りますから殺すなどとはおっしゃらないでください!」

「ごめんよ、坊や。理恵様は黒い猫がお好きではないのじゃ……」
「ミャー……?」
「ごめんよ……どうか、幸せになっておくれ……」
「――ミ、ミャー……」



   そう、僕は捨てられたのだ。
   たった一つの理由だけで、しかも自分ではどうしようもない理由で。
   ――黒い猫なんて、醜いからいらないわ。
   その一言だけで、僕の命は捨てられた。

   先の見えない暗いトンネルに独りで取り残された気分だった。
   時々通りすがる人も、黒猫だ、というだけで嫌な視線を送る。
   僕はただ、ダンボールの隅でうずくまっていた。




「よぉ、チビ助……と違ったな、エイル。良かったらうちで暮らさないか?」
 頭を撫でられすごく気持ちよかったので、僕はその言葉を右から左へと聞き流してしまった。
「……あいつがな、友達がいなくってさ。出来れば、友達になって貰いたいんだが……」
 そこで、僕はやっと顔をあげ妹さんの顔を見た。妹さんは少し心配そうな表情をしながら、僕を覗き込んでいた。その手は絶えず僕の頭を撫で続ける。
「ミャゥ?(……友達?)」
「友達……いないんだよね。外に出ても喧嘩するばっかりでさ。本当ならもう一人同居人を増やしても良かったんだが、生憎合うヤツがいなくて……。
 でも、お前なら、エイルなら合うような気がしてさ。――どうかな?」
 “ヒト”にちゃんと言葉が伝わるかどうかなんてわからなかったけれど、僕は精一杯訴えた。
「ニャー、ニャウミャウ……?(僕なんかでいいの?僕のこと、好きになってくれるの……?)」
「お、それが返事か。よ~っし、それじゃ母さん達に紹介しよっか!」
 僕が“ネコ”の言葉で言ったのを、妹さんは何故か理解してくれた。それは後から考えたことだったのだけど、その時、その瞬間、僕はさして不思議な事でもないように思えていた。
 ――余りに自然すぎた。

「母さん!例の件、決まりだよ!」
「え……?でもあのペットショップでは――」
「ちっがうっての!この子、エイルがな、一緒に住んでくれるって!」
 妹さんは、僕を抱き上げるとその人に渡した。
「黒猫……?」
 僕の顔は強張った。“黒猫”、最初にそう呼ぶ人は僕のことを大抵拒絶する。これから始まるわかりきった未来に少しだけ項垂れた。
 けれど、“ヒト”と言うのは、なかなかどうして不思議なものだった。
「ジジちゃんみたいで可愛い~~っ!!」
「ニャ?(ジジ?)」
 きゃうっ、と抱きつかれた僕は、その状況を理解出来ずにただ頭の中にある疑問を出せただけだった。
「あぁ、ジジっていうのはな、母さんの好きな映画に出てくる猫さんの名前なんだよ」
 そう言うと、近くにある棚のようなものから赤いリボンを取り出した。そしてマフラーをとって代わりにそれを首に結んだ。……ねぇ、僕、男だよ?
「か・わ・い・い~~っ!! エイルちゃん、これからよろしくね!」
「ミャウッ!(僕は男だってば!)」
「母さん、エイルが怒ってるぞ。僕は男だーーっ、って」
 ――そうして、僕は独りじゃなくなった。



   ダンボールの隅でうずくまる僕に、手を差し伸べてくれる人は居なかった。
   だから僕は、自分で自分に手を差し伸べた。
   ――もう、大丈夫だよ。
   独りでも……生きていけるから。
   嘘だ!独りでなんか生きていけないよ!……淋しすぎる……。

   自分に嘘をついてまで、独りで生きていこうとした。




「さて、と。ライ、呼んできてよ」
「ラ~~イ~~っ!!!」
 ライ、それがあの子の名前だった。ドアをカリカリ、とやると彼女は入ってきた。
「ほら、エイル。この子がライだ。仲良くしてやってくれよな?ライも、喧嘩なんてすんじゃねーぞ?」
「ミャー(わかってるもん)」
 お母さんに抱かれた僕と、妹さんに抱かれたライ。双方に見つめあった。
 頭の中にあるのはただ1つの言葉だけ。
 ――よろしく。

「よっし、素敵な仲間も増えたことだし!晩御飯♪ 晩御飯♪」
「晩御飯♪ それじゃ、頼んだ!」
「うええぇぇ?!今日私の当番じゃないし! お姉ちゃんでしょ!こらぁっ、逃げる気か!」
「ふっ、擦り付ける、と言ってくれ!」
「もっとタチ悪いし!っていうか逃げるなってば!!」
 とてもじゃないけど、広いとは言えない――と言っても狭いわけでもない――家の中で突如始まったおいかけっこに、僕とライは笑った。
「ニャ~(あはははっ)」
「ニャン♪(面白い~)」
 だが、それをめざとく見つけた妹さんは僕等を見据えるとお姉さんと手を組んで襲ってきた。
「ふっふっふ、お前等笑ったろ?許さねぇぞぉ~~?」
「ライもエイルも……覚悟するんだな!」
「「ニャーーーッ!!(逃げろ~っ)」」
 二人の追いかけっこは、四人での追いかけっこに変わった。
 逃げて、でもそれは遊びで、楽しくて、楽しくて、泣きそうになった。
 瞳から溢れた雫は、僕の上から、落ちてきた。



   ――幸せって何だと思う?
   幸せ……、それは言葉で説明出来るようなものじゃないよ。
   実際に体験してみて、ふと思うんだ。
   ――あぁ、これが幸せなんだ、って。

   そっか、そうなんだ。
   それなら、幸せっ……てこういう事、言うのかな?
   だったら僕、すごく幸せだ。






* * *





 ポタッ
「――雨……?」
 起き上がった僕の目に飛び込んできたのは、小さな毛布とダンボールの壁だった。
「あぁ……そうか。 夢、だったんだ……」
 お爺さんは軒下にダンボールを置いていってくれたので雨には晒されないが、時折水溜りに落ちて跳ねる雫がダンボールの壁を飛び越えて僕に襲い掛かってくる。
 湿った毛布と残り僅かの煮干とキャットフード。水の入れ物はもう汚くなっていた。
「そうだよな、僕があんな風に幸せになるなんて事、ありえないんだ」
 夢の中では随分と昔に捨てられたように思っていたけれど、現実ではつい最近――三日前に捨てられたばかりだった。あの時のお爺さんの顔を、まだ目の前に浮かべられるほど記憶が近い。
「なんて……馬鹿なんだろ。あんな事、あるはずないのに。高望みしすぎだよ、自分……」
 妹さんにお姉さん、お母さん……ライ。
 夢にしては鮮明すぎるけれど、今の僕から見たらそれはどう考えても“夢”だった。
「……寝よう。僕にはそれしか出来ない」
 再び隅に丸まった。うずくまった場所の近くにまた、雫が落ちてくる。
 ――この世から消えるのも、時間の問題かな?

 パシャン パシャン
 誰かが走ってくる音が、聞こえた。
 僕は寝るのをやめて、少しだけ外を見ようとしたけれど……やめた。どうせ僕の事を罵るような人しか来ないのだから。誰も手を差し伸べてくれたりしないのだから。
 パシャッ キュッ
 走る音は、僕のダンボールの前で止まった。
「――見つけた」
 小さく呟いて、その人はダンボールを覗き込んだ。
 僕は……驚いて、胸が止まりそうになった。
「エイル、探したんだぞ? さぁ、家に帰ろう?」
 差し伸べられた手は、僕の知っているもので。それに答えた僕の動作も、知っているもので。
 ――デジャヴ……?
 ううん、夢だったんだ。正夢だったんだよ。これから来る未来だったんだ。



   ダンボールに差し伸べられた手は暖かくて優しかった。
   傘も差さずに探してくれた事が嬉しくてたまらなかった。
   その腕に飛び込んだ時、世界が変わったような気がした。
   ――家に帰ろう?
   ――うん。



   あたしは、恵まれていると思う。
   小さい頃に捨てられたあたしを救ってくれた母さん。
   大好きな家族、大好きな家、大好きな空間。
   その中に、一人、仲間が増えた。

   彼のことも、“大好き”になれそうな気がする。




 ――幸せって何だろう?

 幸せって言うのはね……――



 F i n .
2003/11/29