拾った少年は、親父の思惑を外れ生きていました。
 どうやら記憶を亡くしたらしく、何も覚えていません。
 名前すらも覚えていなかったので、金色の髪と黄緑の瞳と赤色の燕尾服、そして顔に入った変わった模様を見た新入りが
「道化師みたいだ」
 と言った事から、「道化」と呼ばれるようになりました。

 道化は何も覚えていなかったので、「藍の世界」に下りてもあまり意味が無いだろうという事になり、宇宙センターで暮らす事になりました。
 拾ったのはアンタだろうと言われたので親父は道化を引き取りました。一緒に暮らして、一緒に仕事をしました。
 道化も最初は何も出来ませんでしたが、人間を覚え、生活を覚え、仕事を覚えました。

 日々は過ぎ、親父が道化を拾ってから五年の歳月が流れました。
 すくすくと育った道化は少年から青年へ、口調は親父に似てとても悪くなりました。

「おい、親父。そのしまりのねぇ顔は何だよ。食事だっつってんだろ」
「うるせーや、ちったぁ和ませろや」
 ある日、親父は一枚の写真を眺めてニヤニヤしていました。
 食事の時間だというのに食堂に行く気配を見せない親父を訝しがって見に来た道化は、即座に↑のように言いました。
「早く行かねーと肉が無くなんぞ、肉!今日の献立はアンタの好きな牛肉なんだぞ?」
「なにぃ!?そいつはホントか!急ぐぞ!!」
 一枚の写真を大事そうに懐に仕舞った後で、親父は立ち上がり道化の横をすり抜けて食堂へ一目散に走っていきました。
「……なんだァ?」
 道化は首を傾げました。

 食堂に向かうとやはり牛肉は人気があるのか、既にほとんどがやってきていました。
 その内の一人、道化の同僚の姿を見て、軽く手を上げて挨拶を交わします。同僚はベジタリアンでしたので、少しげんなりした様子でした。
「わけがわからない……何で肉にそんなに群がるんだ……野菜の方が万倍も美味いのに……」
 同僚はその昔、牛肉にあたって生死を彷徨い、それから野菜しか受け付けなくなったのだと道化は聞いていたので、ポンポンと彼の背中を叩いて微笑みかけました。
 道化本人もベジタリアンとまでは行かずとも、肉より野菜派だったからです。
 すると同僚は「ありがとう」と言った後、懐から一枚の写真を取り出しました。
 道化がそれを覗き込むと、
「あぁ、コレかい?家族の写真なんだ。あぁ、愛しのラビアン、君の野菜料理が早く食べたいよ」
 それには同僚と同い年くらいの女性と、その女性が抱いた赤ん坊が写っていました。
「ベルガモールって言うんだ。きっと大きくなったらラビアンに似て綺麗になるんだよ。あと一週間すれば会えるんだ!楽しみだなぁ」
 同僚は一年の任期で宇宙センターにやってきていて、一週間後が丁度一年だったのでした。
 それを見て、道化はハタと思い出しました。
 肉に群がるおっさん共の中の、親父を見ました。

 *

「いいかぁ、道化!俺にはなァ、すんげぇ可愛い可愛い可愛い娘がいるんだ!妻に似た茶色の髪に蒼い瞳!そりゃぁもう愛らしいんだ!あんなに可愛いものが存在してていいのかってくらいにだ!」
「……で?」
「で、ってお前アホか!!何でそんなに薄い反応なんだ!俺がこんだけ盛り上がってるんだぞ、一緒に盛り上がらんか!」
「…………」
「――ったく、まぁ、いいか。兎に角その娘がな、今度劇の主役をやるんだってよ!ああああっ、見に行きてぇなぁ!!」
「行けばいいんじゃねーの。行き来する手段はあるんだし」
「バッカお前!……って、あぁ……そうか、これはまだ話してなかったか」
 親父は神妙な顔をして、一冊のファイルを取り出し道化に渡しました。
 それを開くと、びっしりと文字が書かれていました。
「宇宙センターで働く者の心得とか規則とかだ。――第六条を見てみぃ、「任期中は「世界内部」に戻る事を禁ずる」ってあんだろ?」
 道化は指でなぞり、第六条を読みました。確かにそこにはそんな事が書いてありました。
「昔はな、休みの度に戻れてたんだが、ある時内部で過ごすのが心地よすぎて外部の仕事をしたくないな、とそう思った技術者が居たんだよ。でも休みは終わってしまって、技術者は空へ続く道から宇宙センターへ戻ろうとした。
 けど、境目でどうやっても押し返されちまって、外部に出られない。
 俺達は「世界」を治す仕事をする人間だから、「世界」に認められてる。でも、それを少しでも拒否するような思考をしちまったその技術者は――「世界」から認印を剥奪されたんだ。
 だから境目から抜け出せなくて、結局宇宙センターには戻れなかった。
 問題はここからだ。
 その技術者がショボイヤツだったならマシだったのかもしれねぇが、かなり重要な場所に居た相当優秀な人材だったのがダメだった。
 その時進めていた開発はほとんどが中断、色んな事の予定は大幅に変更を余儀されなくされたし、センターの機能は半分くらい麻痺した。
 当時はまだ優秀な技術者が少なかったからな。一人欠けるだけでそれだけの大惨事だったんだ」
「それで?コレにどう繋がるんだ?」
「ん、そーいうワケで「世界」が人単体でも拒む事があるってわかったから、団体の人材発掘は困難を極めたんだ。いくら技術があったって、「世界」を治すって心底思える人間じゃないと外部にやってこれねーんだからな。
 オマケに最初はそう思ってても内部に戻って決心が揺らいだらもう外部に戻れない。どうしたものか、と上が頭を悩ませた結果が、」
 親父はクイッとファイルを指差しました。
 なるほど、と道化は頷きました。
「……任期期間中は決心を揺らがせない為に、内部には戻れない。だから、アンタは娘の劇を見に行けない――そーいう事か?」
「まー、そんなトコだな」
 一枚の写真を取り出し、親父は愛しむ様にそれを眺めました。
「俺ぁ、あと二年だ……あと二年でやっと帰れる……」
 道化はその写真を見せて貰いました。
 そこには今より少し若い親父と、可愛い女の子が写っていました。
「アンタに似てなくて可愛いな。何歳なんだ?」
「今年で十四歳だ。もう四年も会ってねぇ」
 道化は考えました。
「四年会ってなくて、で、あと二年で帰れる……って事はアンタの任期は六年か?長いな」
「あぁ、俺ぁこう見えて相当優秀な技術者だからな!!!」
 ガハハハと親父は茶化して笑いましたが、でも確かに親父は優秀な技術者でした。
 だからこそ、多くは一年、もしくは三年任期の所を倍に伸ばされたのです。
「……娘がよ、まだ小さかったら一年で帰れたんだが……もう九歳だったしな。お偉いさんからどーしても、って頼まれちゃどーしよーもねぇだろ?」
 そういうわけで泣く泣く、九歳の娘と愛する妻を置いて宇宙に上がったのだ、と親父は付け加えました。

 *

 そんな話をしてから二年が経ち、つまり道化が拾われて五年が経った今年、親父はとうとう「藍の世界」へ帰るのだと、道化は理解しました。
 よく考えれば親父がしまりの無い顔で見ていた写真は、あの時見せて貰ったものだったのだろうと思い至ったのです。
 親父は他にも何枚も写真を持っていましたが、最近はあの時道化が見せて貰った写真しか見なくなっていました。
 それと言うのも、それ以外の写真には、全て奥さんも写っていたからです。

 *

「ルヴィカが……死んだ……?」
 親父と道化が呼び出され、代表が告げたのは親父の奥さんが死んだというものでした。
「交通事故だそうだ。しばらく息はあったんだが、……一時間後に……」
「そん、な……」
 膝をついて床に倒れこむようにして、親父は蹲りました。
「あと一年、あと一年だったのに!ルヴィカ、なんで、どうして!!」
 泣き崩れる親父のそばにしゃがんで道化は背中を摩りましたが、そんな事では慰めにもなりませんでした。
 何度か摩っていると、突然親父は立ち上がり、くるりと踵を返しました。
「待て!どこに行く!」
「どこって……決まってるでしょーが……世界に……内部に……戻るんですよ……ルヴィカに……会いに……」
 それを慌てて代表が止めました。
「待ちたまえ!今貴方に行かれては困るんだ!わかっているだろう!?」
 その時、親父は宇宙センターの核を担う機械の修理を任されていたので、親父が居なくなるのはとても危険な事だったのです。
「なら、代表は俺に帰るなと言うんですかい!妻の、死に目にも会えんで……まして葬式にも出ないなんて、ありえんでしょうが!!」
「しっ、しかし、貴方は一度下りたら帰って来ないだろう!?」
「そんなっ、事は――」
 無い、とは言い切れずに親父は言葉を濁しました。今の気持ちで世界に下りて、それで再び上がってこれるとは到底思えなかったからです。
「道化クン!君も何か言ってくれ!」
 いきなり代表にそう言われ、道化は焦りましたが、でも親父の腕を掴んで首を横に振りました。
「アンタの……奥さんは、アンタが今帰っても……生き返らない」
「っ!」
「でも!今、アンタがここから居なくなったら、センターの、今生きてる人間は死んじまうかもしんねーんだぞ?!」
 誇張でも何でも無く、本当にそれくらいの重大な欠陥修理だったのです。
 親父は考えて考えて、考えて考えて、考え抜いた結果、
「……残り、ます」
 そう、決めたのでした。

 それから半年は親父は修理作業に追われていました。道化もまた、それを一緒にやっていました。
 全く同じとまでは行かなくとも、四年間、一緒に居たせいか、他の人間よりもより多くの事を理解出来るようになっていたのです。
 とてもとても難しい作業ではありましたが、親父はとてもとても集中してそれをやり遂げました。
 それに集中してないと、他の事が辛すぎたからでした。

 奥さんのお葬式に行けなかった親父は手紙だけでも、と娘にそれを送りました。
 そして返事はきました。
 母の葬式にも来れない人間を、父とは思わない。
 そんな内容でした。
 親父は酷く悲しみ、自分を呪いました。
「アンタは悪くねぇよ……アンタは……悪く、ねぇ」
 「世界」を救うために団体には、ひいては「藍の世界」には技術力を持った人材が必要だったのです。
 任期を六年、なんていう長い期間に設定したのも、「世界」を治すために必要だったからです。
 六年間世界に下りれないのも、奥さんが死んでも下りれないのも、全部全部――「世界」を守るために必要だったのです。
 そして愛する人を守るためには、「世界」は正常で在ってくれなければ……ならなかったのです。

 例え嫌われても、娘を守るために、と親父は仕事に精を尽くしました。
 傍から見ていて、悲しくなるくらいに、必死でした。

 半年が過ぎ、故障は直り、でも反対に親父は故障したように意気消沈していました。
 やる事がなくなって――厳密に言うと仕事はたくさんありましたが――奥さんの死と、娘さんからの言葉から逃げられなくなったからです。
 それでも家族に、故郷に思いを馳せることはやめられなくて、一枚だけ、見る事を許したようでした。
 それが、あの写真でした。
 まだ若い自分と幼い娘。奥さんはいませんでした。
 セピア調のその写真で、娘さんの言葉からは逃げられても――奥さんの死からは、逃げられなかったのです。見るのが、辛すぎたのです。
 道化もまた、そんな親父の姿を見るのが辛かったのですが……、

 *

 献立が牛肉だった日の前日、一通の手紙が親父のもとに届きました。差出人は娘さんでした。
 もうすぐ母の命日です。その時にはお父さんも任期が終わっているので、二人でお墓参りに行きましょう。
 そんな内容でした。

 道化はそれを牛肉ご飯の後に教えて貰いました。
 それはつまり、娘さんが親父の事を許したのだ、と道化は思いました。親父もまた、同じ事を思い、とても喜びました。
 任期が終わるまで――あと二週間でした。

 それから二週間、牛肉から始まり、親父大歓喜の日々が続きました。
 担当の仕事は上手く行く、機械も故障しない、世界情勢も安定していて新たな傷もつかない。
 道化にとっても大歓喜の日々が続いていました。
 ほとんどが親父と同じ仕事なので、歓喜の内容は一緒でしたが恐らく親父よりも楽しい二週間でした。
「お前も一緒に下りるか?」
 親父がそう言ってくれていたからです。
 十三歳で拾われてから五年間、ずっと宇宙センターで暮らしてきた道化にとって、「世界」は憧れの存在だったのです。
 それと一応年頃の男でしたので、親父の娘さんに会えるのも楽しみにしていました。写真で見る限り、道化の好み一直線だったからです。

 そんなわけで二人にとって最高の二週間は、



 * *



「ち、く、しょおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 瓦礫の下で男が叫びました。
 そう叫ぶ男は腕が千切れ、足もあらぬ方向に曲がっています。
 見ると周囲はそんな風な人間がたくさん倒れていて、中には息をしていないだろう人間も、たくさん居ました。

 ――燃料保管室の管理に問題か?

 後の報道ではそんなタイトルをつけられたそれは、宇宙センターが始まって以来の大惨事になりました。
 報道タイトルの通り、燃料保管室の管理及び警備が不十分だったためか、職員の一人がそこに入り込み火を放ったのです。
 宇宙用に特別に開発されたその燃料は燃える、というよりも爆発する、と言った方が正しいくらいに強いもので、火をつけた職員はその瞬間に木っ端微塵になって、そして燃料保管室を中心に、周囲を抉りながら大きな爆発を繰り返しました。
 機械も建物も、人間も巻き込んで起きた爆発に――機械の調節をしていた、親父も巻き込まれました。

 たまたま部品を取りに親父とは別行動していた道化がセンター全体が揺れた爆発に気づき、現場に駆けつけたときはそこは火の海で、瓦礫が容赦なく視界を埋めていました。本来なら、だだっ広い廊下が広がる場所だったのですが、跡形もありませんでした。
「とりあえず消化しろ!!誰か、消化ロボットを操ってくれ!!」
 道化はすぐさまロボットに飛び乗り、勢いよく消化液を噴出させました。
 その後何体かのロボットと、人力でなんとか火は抑えられ、先へと続く道が現れました。道化はロボットに乗ったまま、瓦礫の中を進みました。
 途中埋められてしまっていた「生きている」人間を数人助け、埋められてしまった「死んだ」人間を数十人運び出し、そして、
「親父……嘘、だろ?」
 「今にも死にそうな」親父も、運び出しました。
 瓦礫が頭を割ったらしく、顔は血に塗れていました。腹には機械の一部が刺さっていました。他の犠牲者と比べたら随分綺麗な状態でしたが、それは何の救いにもなりませんでした。
 どう見ても、致命傷だったからです。
「今日で、二週間じゃねぇか!なのにっ、なんでこんな事に……!!」
「道化……か……? はは、悪い……俺、あ、ここ、ま、 うっ ガハッ」
「親父っ、親父!!!」
 揺さぶろうとした道化の手を同僚が止めました。
 もう助からないとは言え、頭を打っている人間を揺さぶるのは死期を早めるだけだ、と思ったからです。
 それを道化も理解して、揺さぶる代わりに親父の手をぎゅっと握り締めました。
「俺ぁ……なァ、この五年……結構、楽しかった……」
「オレも!楽しかった、これからも楽しくしてぇのに、っく、」
「ただ……な、道化……心残りが、二つ……あ、る」
「な、何だ?」
「道化、おめぇの……名前が、本当の名前、が……わからんかった事、と……」
 ガハッと血を吐いて、でも親父は続けました。
「娘と……サリアと、この宇宙を……見れなかった事だ――」
 道化は手をもっときつく握り締め、
「そんなの……これからだって出来るだろ!?娘さんと一緒に見たいなら、アンタ生きねぇと!オレだって……そしたらいつか思い出すかもしんねぇのに!! なのに!!」
 致命傷だと、助からないのだと頭では理解していても、心では理解したくなかった道化は、泣きながらそう叫びました。
 すると親父は気力を振り絞って、小さく笑います。
「……だからなァ、道化ぇ……お前、頼むわ……」
「――え?」
「いつか……娘をこの宇宙に、そんで……お前の名前、本当の……名前、思い出して……呼んでもらえ……な?」
「わかった、わかった! わかったから、親父……ッ!!!
 涙を流しながら言う道化の言葉を聞き終え、親父は微笑み、
 そして、道化が握っていた手がくたん、と重くなりました。
 それから力が抜けて滑り落ち、目蓋も閉じられて、鼓動は止まり息もしていません。つまり、これは――死を意味していました。
「おや、じ? 親父、親父っ!!!おい!!!!親父!!!!」
 ガタガタッと今度こそ揺さぶりました。当然、もう同僚は止めませんでした。止めても、意味が無い事がわかっていたからです。
 道化は揺さぶり続けました。
 親父は、二度と目を開きませんでした。



 * *



 騒動が一段落して、道化を待っていたのは修復作業と一通の手紙でした。
 修復作業とは「世界」の、と宇宙センターの、両方でした。
 燃料保管室に火を放った男は、自分の仕事が嫌で嫌で、逃げ出したくてやったのだと後日見つかった文書から発覚しました。
 そしてそれを知っていた世界は、惨事の翌日から何箇所も少しずつひび割れてきていました。
 自分を守ってくれるはずの団体に、そんな事を考える輩が入り込んでいたのか、と深く傷ついたようでした。
 宇宙センターの方は、建物の修復は当然の事ながら、親父が担当していた機械の修理は全て任されました。それに加え、他の所もほとんどが道化に割り振られていました。優秀な技術者が尽くやられ――死んだり、利き手を失ったり――出来る人間が少なくなっていたのです。
 親父を失った悲しみを癒せないまま、道化は奔走しました。

 そんなある日、一通の手紙がきました。
 差出人は娘さん、親父が死んで一週間後の事でした。
 この手紙が着く頃にはもう任期は満了しているのでしょうね。帰りの日程が決まったら連絡してください。迎えに行きます。
 そんな内容でした。
 あの惨事の後にしては、心配も労わりも無い簡潔な文章です。それが気になって道化は嫌な気分になりましたが、ふと気付きました。
 「世界内部」から宇宙センターまで、手紙が届くのは一週間程かかります。更にこのごたごたで配送が遅れたのでしょう。
 手紙の裏に記されていた日付を見ると、惨事の五日も前でした。
 なるほど、この手紙を書いた時点で娘さんはあの惨事を知らなかったのか、と思うと同時にまだ親父の死も知らないのだという事に気付きました。
 死亡者の遺族への通達は昨日から始まり、順番にしていくので親父の番はまだでした。
 身内の起こした事でもあったので報道対応は最小限にし、死亡者の名前も出ていないのでわかりようがありません。
 しかし明日か明後日には通達が行き、速達扱いのそれは三日後には彼女にもとに届くでしょう。
 そして、たった一人の肉親を亡くした事を――彼女は知る事になるのです。
 道化は頭で考えるより早く、通達作業をしている部署へ向かいました。親父の分は自分が出すと言って必要な書類を貰って来ました。それを――引き出しの奥の奥に、仕舞いこみました。
「……わかってる、わかってるって……」
 心臓が早鐘のように鳴り、引き出しの奥の存在を感じながら道化は呟きました。
 けれど、ようやく体に追いついた頭の中で考えた事を、やめるつもりはもうありませんでした。
 便箋を一枚取り出し、左手でペンを持ちました。
 普段使わない手ではへろへろの文字しか書けず、きっと筆跡鑑定をしても誰だかわかりません。
 道化は書きました。
 嘘を、書き出しました。

 ――ニュースは見たか?俺もあれに巻き込まれてしまって大怪我をした。当分帰れそうに無い、すまない。

 利き手と両足とその他諸々を怪我した事にして、道化は親父に成り(すまし)ました。
 自分の傲慢で勝手過ぎる考えだと思ってはいても、彼女に―― 一人ぼっちになってしまった事を知られたくなかったのです。
 それと同時に、自分も―― 一人ぼっちになってしまった事実から、逃げ出したかったのです。

 返事は一週間後に来ました。
 速達扱いで出した偽の手紙の返事もまた、速達だったからです。

 大怪我をしたというのは本当ですか!とても心配です。下りてきて大きな病院に入院するのはダメなのですか?
 ――センターの方が医療設備が充実しているし、この体では下りる体力も無い。すまない、まだ下りれない。
 そんなに酷い怪我なのですか……私もそちらへ行ければいいのに。早く治る事を祈っています。
 ――ありがとう。早く治ればいいのだが、医者の診断では少なくとも――

「少なくとも……」
 道化は手を止めて考えました。全治何週間、何ヶ月、何年?どれくらいにすればいいのでしょう。
 ふと思い出したのは、向こう二年はセンターに居て欲しいという代表の言葉でした。
「少なくとも……向こう二年はセンターに居て治療すべきだ、と言われた。本当にすまない、サリア。、と」
 道化は書き終えた手紙を封筒に入れ、速達で出すように頼みました。

 そんなやりとりをしてる中、犠牲者のほとんどは世界へ下り、各々の墓に入りました。
 しかし、身寄りの居ない者や生前の希望に沿う形で灰になった者は、特別な処理を施された後、宇宙になりました。
 ――親父も、その一人になりました。
 本来なら娘さんの所へ行くはずだった体が、焼かれて灰になって宇宙に飛び出した時には、悲しみと同じくらいの罪悪感に見舞われましたが、それでも道化は止めませんでした。

 あの手紙によってこれで向こう二年は、彼女にとっての父が生きている事になります。
 それは道化にとっても、でした。
 二年後、どうなるのか、どうなっているのか、そんな事は全く考えずに道化は一人笑みました。
 それはとてもとても危険な事でしたが、道化には二年後よりも――「今」、救われることが……必要だったのでした。



 *

 

 そうして架空の親父を使って、彼女との手紙のやりとりが始まりました。
 奥さんが亡くなるまでは本物の親父もこうしてよく手紙を出していたものだ、と道化は振り返りました。それから親父なら何を書くかな、と考えて、……自分の脳内に作り出した親父に問いかけて……嘘を書いていました。
 治療やリハビリが辛かっただとか、好きな食事が出ただとか、同僚にはこんなのがいる、だとか。
 サリアもまた、日常の楽しかった事悲しかった事驚いた事怒った事、色々書いてきて道化はそれを読むのがとても好きでした。
 一ヶ月が過ぎ、半年、一年、一年半、とあっという間に時間は去って行きました。
 仕事もほとんどが上手く行き、代表も二年以上は縛らないと確約してくれました。

 そんな中、サリアからまた手紙が届きました。
 もう二年まですぐですね。体の具合はどうですか。お父さんが帰ってきたら盛大にパーティでお迎えしたいです。野菜たっぷりのポテトパイを作ってあげますね。それまでに練習しなくっちゃね。
 道化はそれを見て歓喜しました。
「野菜たっぷりのポテトパイ!」
 道化の大好物だったのです。
 順調に治ってるよ。野菜たっぷりのポテトパイを励みにもっと頑張る事にする。
 そんな内容で返事を出しました。とても、浮かれていました。
 親父の死から一年半が過ぎ、悲しい事は確かでしたが――それよりも別の感情が道化に沸き起こりつつあったので、それで更に浮かれていました。
 大好物のポテトパイを彼女に作って貰える!嬉しすぎる!
 そういう思考の素、つまり別の感情とは……恋愛感情なのです。
 一年半もの間手紙をやりとりした事で、それまでに親父に聞かされていた少女像が肉付けされて行き、好み、から好意に、そして愛情に変わるのは……さして不思議では無かったのです。
 
 道化はこんな風に浮かれきっていましたから、二年が経つ、その二週間前まで、その日付の意味を取り違えていました。
 二年経った後とは、道化が彼女に会えるという事では無く、ポテトパイを作って貰えるという事でも無く、
 ――道化の嘘がバレ、彼女が、父の死を知る……そういう事なのです。
 それに気付いた道化は慌て焦りました。そして亡き親父に深く謝罪しました。最初から間違っていたのです。親父を騙って手紙を書くなんて言語道断、ほとんど犯罪行為です。
「でも、あの時は、それが正しいと思えたんだっ」
 一人、部屋の中で道化が叫びます。
 確かに親父が死んだ後、道化にも彼女にも拠り所が必要でした。そしてそれが「親父」というキーワードで一致しました。どう転んでも、恐らく道化はそこに行き着いたのです。そうしなければならないくらいに傷つき果てていたのです。
 でも悪い事は悪い事に他なりません。
 二年経った今、「世界」に下りて彼女の所へ行って謝罪をしなければならないでしょう。
 しかしそれはとても怖い事でした。
 罪を認めると同時に、自分の手で親父の息の根を止めてしまうような気になったからです。
 けれど、彼女に会えないのもとても辛い事でした。
 ポテトパイが、なんて事は言いません。ただただ、一目だけでも――文字だけで無く、写真だけで無く、生の彼女が見たかったのです。
 二週間の間、道化は悩みに悩みました。
 謝罪か逃げるか、嘘を突き通すか、嘘を重ねるか、色々とぐるぐるぐるぐるぐる考えて、そして、



 * * *



 道化は小さな鞄と、そして一枚の写真を手に立っていました。
 写真に写る建物の前に棒立ちになって、そこをずっと見つめていました。

 結局道化は「世界」に下りて、親父の、そして彼女の家を訪ねる事にしたのです。
 洗いざらい言う事にもしました。どう責められようと罵られようとそれだけの事をしたのだ、と覚悟を決めてきました。
 サリアには今日着く事を伝えていましたが、思いのほか道が複雑で迷ってしまい――建物の前に来たのは、もう星巡る時。つまりは夜でした。
 こんな時間でも大丈夫だろうか、迷惑にならないだろうか、と思ってしまいチャイムになかなか手が伸びません。
 決心をしてきたのに、なんだかもう逃げ出したくなってきました。
 しかしこうしてここでぐだぐだ考え込んでいても時間が過ぎていくだけで全くの無意味です。
 道化は心を固め、チャイムに手を伸ばしました。

 リンゴーン

 重い音が鳴って、パッと建物に灯りがつきました。
 ガチャガチャと鍵を開ける音がして玄関の扉が開きます。道化はパッと闇に差し込んだ暖かい光に目を細めました。
 暖かい光の向こうに、彼女が居ました。
 そして言いました。
「どうぞ。 お待ちしておりました、道化様」