1.知らないところで

 世界は広くて、ちっぽけな一人の人間が全てを把握するのは到底不可能だ。
 自分の周りに張り巡らした網の間を幾つもの情報が擦り抜けていく。

 ふと読んでいた本を閉じて窓辺へ目をやった。
 ほとんど裸に近い木々が視界に入る。
 その中の一つ、まだ一枚の葉をつけていた木があった。

 僕は少しの間、目を閉じた。
 つい先ほどまで読んでいた本について考える為だ。
 そして目を開けると。

 立ち並ぶ木々に葉の姿は無かった。

 思わず立ち上がって窓際へ寄り、下を見下ろす。
 清掃されて綺麗なコンクリートの上に一枚の葉が落ちていた。
 それを見て僕は思う。

 この葉が落ちたことを知らない人が何人も居るように、
 どこか、僕の知らないところで死んでいる人もたくさんいるんだろうな。

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2.声が聞こえた気がした

 それはとても微かなものだったように思う。
 時折吹く北風がそんなに風な音を奏でただけなのかもしれないし、もしかするとどこかの家の窓を閉じる音だったかもしれない。
 それでも僕はそれが“声”のような気がした。
 若い女性の――悲鳴。

 辺りに注意しながら小走りに道を行く。
 いくつかの家々の前を通り過ぎ、二つの角を曲がった……時に。

 声の主を見つけた、と思った。

 ヒールの高い靴を履いた女性だった。
 仰向けになって宙を見ている。
 胸に何かが、刺さって、いた。

 ……あぁ、そうか。
 僕は少しあがってしまった息を整えながら彼女に近づいた。
 そして胸のナイフを確認した。

 ……断末魔、だったのだ。

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3.守れなかった約束

 初めての仕事だ、と思っていた。
 ……いや、“仕事”では無いかもしれない。
 それは“願い”だった。

 何もかもが白い空間で、ただ一つ色彩だった。
 優しく微笑むその笑顔に、頭を撫でてくれるその手に、どれだけの意味が込められていたかも知らないで。
 日に日にやつれていくその人は、それでも僕が行くといつも調子の良さそうな顔をして微笑んだ。
 それに、騙されていたのだ。いや、騙されて、いたかったのだ。

 そして、約束を交わした。
 幼いながらに真剣に受け止めて、守るのだ、とそう考えていた。

 けれど、約束をした翌日。

 彼女の鼓動は聞こえなくなり、あっけなく灰になって消えた。
 僕は、彼女を――母を、守ることが、出来なかったのだ。

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4.忘れることができなくて

 そう、彼は言った。
 その瞳に涙を浮かべて、笑いながら言ったのだ。

  ――忘れることなんて出来ないんだ。

 手すりの向こう、風の吹き荒れる寒い昼下がり。
 まだ年若い眼鏡のサラリーマンは見えない大地へ足を下ろした。

 紅く咲き乱れる華のように。
 自らの血肉を画材に変えて、彼は道路に絵を描いた。
 黒いスーツと黒ぶち眼鏡がその“華”には似合わなくて、
 ――黄色だったら良かったのにな、と不謹慎にもそう、思った。

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5.涙がこぼれていた

 死体を一つ片付けた日に、偶然やっていたドラマを見た。
 よくあるミステリーもので、最初から見ていたわけでは無いのではっきりはしないが、どうやら家族殺しのようだった。
 新聞のあらすじを見て大体のストーリーを掴む。

 父親と15歳と8歳の兄妹の3人暮らし。アル中でちゃんとした仕事にも就いていない父親による暴力から妹を守るために父親を殺してしまう兄。自分の犯した罪を認めながらもまだ小さい妹を一人にするわけにもいかず、妹を連れて警察の手から逃げるが、最後には捕まってしまう――

 犯人役の子役が上手かったせいもあるかもしれないが、何だか無性に悲しくなって。
 ……気がついたら涙がこぼれていた。

 そして思い出す。

 片付けた死体。捕まった少女。
 ――彼らは、どのような経緯で“そう”なってしまったのだろうか。
 テレビの電源を切って、僕は鞄を探そう、と思った。

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6.最初で最後の言葉

 その殺人鬼には昔、子供が居たのだという。
 最愛の人との間に生まれたこの世でただ一つのいのち。
 すくすくと育って、もうそろそろしゃべれるようになる、そんな頃だったらしい。

 彼らは公園に出かけていた。
 お日様が燦々と照るお出かけ日和。その公園には彼ら以外にもたくさんの人が居た。
 木々が作る日陰の一角にシートを広げ、トイレに行く、と少しの間そこを離れた。

 そして。

 彼が見たのは長い刃物で串刺しにされている妻と、子供の姿。
 二つの心臓を綺麗に突き抜けて、その刃はシートと地面に刺さっていた。
 大地を紅く染めながら。

 慌てて駆け寄った彼にはどうする事も出来なかった。
 誰かが来たのがわかったのか、妻が僅かに目を開ける。口が動いたが何も聞き取れなかった。
 しかし別の場所から、声が聞こえたのだ。

「ぱぁぱ……」

 そしてそれきり、何も聞こえなくなった。


 ---


「だからと言って、殺人を犯していいという事にはならない。
 君はそんな風に傷ついた気持ちを知っているのに、それと同じような人達を何十人も作ったんだ」

 殺人鬼は、赤ん坊だけを狙って11人も殺していた。
 そのどれも包丁で喉を引き裂き、心臓を抉り取っていた。

 その心臓を、自分の子供に、移植しようとしていた。

「仕方なかったんだ!それしか方法は無いと思った。俺は……っ、あの子を生き返らせたかったんだ!あの子の口から――もう一度だけでも、声が聞きたかった!呼んで欲しかったんだ!!」

 そう言って涙をこぼす殺人鬼を一人残し、僕はその場を立ち去った。
 遠くから聞こえる哀れな男の悲痛な叫びが耳に障った。

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7.殺すことができない

 黒く光るそれを始めて手にした時、隣に居た男が呟いた。
 ――こんなの出来ない。
 凶悪犯が居たとしても、それを撃つことなんで出来ない。殺すことなんて出来ない。

 僕はその黒く光る拳銃を手にとって考えた。
 ――殺せないヤツは殺されるだけだ。

 男は僅か3ヶ月で撃たれて死んだ。
 一般人でも拳銃を持っているような街だ。それなのに男は最後まで使おうとしなかったという。

 ――ここでは仕方の無いこと、だ。
 今もまた一つのいのちを奪いながら、海の向こうの故郷を懐かしく思った。

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8.血塗れの手

 僕の手は随分と汚れてしまったんだよ。
 だからお前のその生き方が随分と眩しく感じるんだ。
 僕やお父さんの影響でこっちの道に来ようとしている君にそれを覚られるのはそう遠くないだろうな。
 それでも僕はこの血塗れの手をお前には知って欲しくないんだよ。
 お前にはただの“探偵ごっこ”で終わって欲しいと思ってるんだよ。

 ねぇ、聞いているかい。僕は本当はお前にこっちへ来て欲しくないんだよ。
 もしお前のその手が誰かの血で紅く染まる事があるのかと思うと、僕は背筋が凍る。
 いいんだ、お前はこっちに来なくていいんだよ。
 なのに、なんで――

「なんで?なんで動かないんだ?」

 お前の手を紅く染めたのは、彼、だった。

 ――ねぇ、聞いているかい。
 お前をそんな目に合わせてしまった僕はどうすればいい?

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9.何か訴えるように

 久しぶりに乗った電車。丁度通勤ラッシュだったらしく、人でごった返していた。
 比較的大きく、人の行き来も激しいホーム。
 そこは快速や特急も止まる駅だったが、特定の駅しか止まらないという通勤用電車だけは止まらなかった。
 そしてその通勤用電車が通り過ぎる、そうアナウンスが入った時。
 少し離れた場所で悲鳴があがった。

 慌てて駆けつけると、ピッと暖かな物が頬に飛んできた。
 何かと思って拭うとそれは紅く、八両編成のその電車が通り過ぎた後には両足を無残に切断された女性の姿があった。

 近くに居た駅員に手帳を見せて救急車を呼ぶ事としばらくの間線路に電車を入れないように、と言ってからすぐに線路に飛び降りた。
 切断された足からは血が流れ出ていた。
 ネクタイや持っていたハンカチで大まかな止血を施そうとする。しかし余りに出血が多いため、気休めにもならなかった。
 その女性はまだ意識を持ち続けていて、苦痛で声は出せないようだったが何かを訴えるように僕の方をずっと見ていた。

 女性はその後すぐに病院に運ばれたが、出血多量の為帰らぬ人となった。
 そして僕は彼女のあの目の理由を知った。

「私見ました。……あの人、男に突き飛ばされて線路に落ちたんです」

 同じホームに居た人々の証言によって。

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10.静かに微笑んだ

「あら、何してるんですか署長?」
 コトン、と小さな音と立てて僕の机にコーヒーのカップが置かれた。
 手元の資料ばかりを見ていたのだが、ふわりと揺れた色素の薄い髪を見て慌てて顔を上げる。
「沙雪君!あぁ、君にコーヒーを入れてもらえるなんて僕は幸せ者だな!」
「やだ署長ったら。ただのインスタントコーヒーですよ?」
 少し照れるように笑った彼女に僕の胸は軽く鼓動を早める。
「そうだ。署長がここに居られるのって珍しいから、クッキーも差し上げます。他の人にはナイショですよ?」
 こそこそっと少し身をかがめた状態の彼女から渡されたクッキー。僕も同じようにこそっとお礼を言う。
「でも本当に珍しいですよね。何してらしたんですか?」
 そう言いながら首を傾げる彼女に僕は読んでいた資料を片手で上げて見せた。
「ちょっと昔担当した事件なんかを思い出していてね」
「へぇ……さぞご活躍されたんでしょうね」
 その言葉に僕は小さく微笑む。
「まぁ……そう、だね」

 彼女は「頑張ってくださいね」と言って、他の人の分も淹れに行ったようだ。
 僕はコーヒーを一口含んで、資料に視線を戻す。

「ご活躍――か」
 数々の事件を解決する、ということはそれだけの事件が起きているということでもある。

 果たしてそれはいい事なのか。

「まぁ、いいか」
 僕はまた一口、コーヒーを口に含み、静かに微笑んだ。

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