その雫が地面に落ちた時、全ては変わった。

 ポタッ
 突如として降り出した雨。傘を持っている人は傘を差し、鞄の中に入れていた人は急いで取り出し、持っていない人は近くにある店に逃げ込んだり……と、それぞれの行動を起こしていた。
 朝のニュースでお天気お姉さんが「今日は雨が降りそうです」と言っていたのを知っているのか、ほとんどの人が傘を持っていた。けれど、わざわざそれを無視して持ってこなかった人や、持ってこようと思っていたくせに忘れた人は必ず、と言っていいほど確実にいる。
 そして、此処にも、「必ず」に漏れない人物が居た。
「ぬあぁぁ……雨降ってきたぞおぉ……」
 初めはパラパラ、だった雨も今はもうザーザーとまではいかなくとも結構な降りになってきていた。道路に落ちて跳ね返る雫をズボンで受け止めながら男は呟いた。ズボンはというと、もうグチャグチャのヘロヘロだ。そして、そのズボンと同じように男の顔もまた……グチャグチャのヘロヘロ状態だった。
「うっ、うっ、うっ。 雨のバカヤローっ。 俺を殺す気かぁっ!」
 大の大人が何を泣いとるんだ、と思われてもしょうがない。現にスーパーから買い物を終えて出てくる奥様方にはかなり不振な眼で見られている。それを知ってか知らずか――恐らく前者だろうが――男はまた、泣き叫んだ。手に持っているピンクのド派手な袋を精一杯に揺らしながら。
「パンがふやけちまったら、ナオに殺されるだろーーーっっっ!!!」
 ンなこと言っても雨がやむはずもなく……ただ、いつもよりもエコーの通りが悪かっただけだった。

「ね。サンドイッチ食べたくない?」
 本を読んでいた自分に突然話しかけてきたのは、双子の妹。親や友達曰く、“そっくり”な妹。俺としては、それは外見だけに留めておいて欲しい、と密かに思っている。
「サンドイッチ……? 何でまた」
「いや、なんとなく、さ。 ホラ、今日お母さん達いないしさ、お昼もうすぐだし?」
 そう言われて思い出す。母さんと父さん……朝から万年惚気夫婦しながら出かけていったっけ……。あの人達も、仲が良いのはいいんだが――ちょっと露骨すぎて子供にとっちゃいい迷惑だ。
「で?返事は?」
「あ……、うん。俺は何でもいいけど」
 本を閉じようとするナオを必死で止めながら、俺は栞を探して読んでいた頁に挟んだ。……次に読めるのは午後になるのかなぁ。
「よっしゃ!! んじゃ、タケ材料買ってきて!」
「――えぇっ!? 材料ないのか?!」
 ガッツポーズをとった後に、ビシッと俺を指差して行って来ーい!とナオは言った。俺といえば、てっきり家に材料があると思ったから適当に返事しただけだったのに。
「材料?そんなのあるはずないじゃん? ホラ、見てよ、この冷蔵庫」
 カパッ、と冷蔵庫を開ける。中身は気持ちが良いほどにからっぽだった。入っているのはもう残り少ないだろう牛乳と、マーガリン、たまごが4個、そしてお茶のボトルだけだった。
 母さんも父さんも……もうちょっと考えて買い物とかしてくれないかなぁ。まぁ、その日の分だけ買うっていうのは、経済的かもしれないし、腐る心配もなくていいかもしれない……けどなぁ、これは酷いだろ。
「……材料ないんだったら、どっかに食べに行くとかにしようぜ」
 この冷蔵庫の中身だと、サンドイッチどころか、何も作れない。そこで俺は外食を提案した。けれど、ナオは顔の前で指をチッチッチと振った。
「だめだめ。こんな嫌な天気なのに外食なんて!!」
 窓の方を指差す。確かに空は青色ではなく、灰色。今にも雨が降り出しそうな雲が空を支配していた。
「……それじゃ、この天気の中、俺を買い物に出すのは――」
 酷くないか?言葉を最期まで言わず、チラリとナオを見ることで訴えかけようとした。しかし、ナオはそんな目線に気づくこともなく、にぱっと笑った。
「え? 別にいいじゃん!タケだしv」
「ほほぅ、俺だから?」
「うんっv タケって晴れ男だし」
 思わず出てきた冷や汗に気づきながらも反論を試みた。……まぁ、結果はわかっているのだ。俺は昔からナオの黒いオーラには勝てないのだ。いつも最期には俺が負けている。
「あ……うぅ……。 あーもー、わかったよ。行きゃあいいんだろ……ったくよー」
「流石はタケ! よくわかってるね~、エライエライ」
 頭を撫でようとする手から逃げると、家族共通の財布――買い物に行ったりするときはこれを使うのだ――を取り出した。サンドイッチの材料分くらいは買えそうな金額が入っていたのを確認すると、俺はこれまた買い物用の手提げを引っ掛けて――やけに主婦臭いとかは言わないように――玄関のドアを開けた。ナオが玄関先まで見送ってくれる。
「それじゃ、んーとサンドイッチ用のパンと、ハム、きゅうり、レタス、チーズ……くらいでいいか?」
「あ、あとね!生クリームとフルーツの缶詰、適当に見繕ってきて!」
「オッケ」
 いってらっしゃーい!と手を振るナオに、少しだけ手を振り返すと、俺は今にも雨が降り出しそうな空を見上げながら近場のスーパーへと走った。



「よし。パンにハムにきゅうりに、レタス。チーズと生クリームも入れた!後はフルーツの缶詰だけだな」
 カートを押しながら、缶詰売り場へと向かった。お昼の食材を買いに来ているのか、女性が多く見受けられる。まぁ、中には俺みたいな男もいるんだけど。
 そうこうしている内に、売り場についた。所狭しと並べられた缶詰達。……フルーツサンドだから、とりあえずミカンとパイン、それに黄桃は買っとくかな。あ、それからチェリーだな。
 ナオは、この着色料たっぷりの缶詰のチェリーが好きなのだ。食べているときに舌を出すと、紅く染まってしまうほど強い色……何処がいいんだろうか?
 カラン
 色々と思うことはあったが、買わないとたぶんナオが怒るので、俺は一缶を手に取ると、カートの中に入れた。他の缶詰と重ねるようにして置く。
「……と、こんだけでいいよな。じゃ、レジ行くかー」
 カラカラと、カートを押しながらさほど混んでいないレジを探してカゴを置いた。俺よりちょっと年上くらいのバイトの人が手際よくレジを操作していった。
「お会計は、1974円になります」
 財布から2000円と、4円を取り出した。返ってきたお釣は30円。それをレシートと共に財布の中に突っ込むと、レジで既に入れてくれた袋を持って、自動ドアをくぐった。
 ――そして、冒頭へ戻る。

 自動ドアをくぐると、頭上に一滴の雫が落ちてきた。俺は頭に手をやり、少し濡れた部分を触って、しばらく考えた。――雫が落ちてくるような事、あったっけなぁ?
 そう、思ったが早いか……雫は増えていき、小雨になり、本降りへとなった。
 俺の周りに居た人たちは一斉にスーパーの軒の部分に寄って来ると、それぞれに傘を取り出した。花柄やら、水玉やら、チェックやら……たくさんの傘が開き、一気に花畑へと変わっていった。
「ぬあぁぁ……雨降ってきたぞおぉ……」
 俺は、傘なんて持ってこなかった。傘を差すのが嫌いというのもあるが、ナオが言っていた通り、自他共に認める晴れ男だったからだ。まさか、雨が降ってくるとは思わなかった。
 専用買い物袋を握り締めながら雨雲を睨みつけたが、雨は止むことなく、その上もっと強く降ってきた。
「パンがふやけちまったら、ナオに殺されるだろーーーっっっ!!!」
 傘に顔を隠しながら、買い物帰りの奥様達は俺を盗み見た。その目はかなりキツい。……あぁ、わかってるよ、わかってるけどな?――ナオが怖いなぁ……。
 結局俺は、そのスーパーで透明のビニール傘――100円だったのだ!――を買って、雨の中を走って帰った。傘だけでは、頭上は防げても、下からの跳ね返る雫は防げない。お気に入りのカジュアルパンツはもう泥だらけだった。
 ――家に帰って即行で洗わなきゃな。
 そう思いながら、家路を急いだ。



「たっ、ただいま!!」
「あ、お帰りぃ~。ちゃんと買ってきてくれた?」
 玄関のドアを開けて、ただいまだけ言うとすぐにまた外に出て傘をたたんだ。その間にナオが廊下を走ってくる音が聞こえて……ドアが開いた。
「お帰り」
 にこにこと――俺から見ればちょっと怖い――笑みを浮かべながらナオが玄関から顔を出した。俺は無言で袋を渡すと、すぐに風呂場へと駆け込んでズボンを履き替えた。……脱いで見ると本当にグチャグチャで少し凹んだ。高かったのに……。
「タケー! じゃ、作るから手伝って!」
「えぇっ?俺も手伝うのか?」
「当たり前でしょ!手伝わなきゃ食べさせないわよ!」
 俺が買ってきたんだからすでに手伝っているのでは……?そう言えたらどんなに良いだろうか?何を言っても結局は手伝わなければならないのだ。俺はすごすごとダイニングキッチンへと向かった。

「それじゃぁ、まずパンにマーガリンを塗る。私は野菜やハムを切るわ」
 要領は人一倍良いナオは、次々と仕事を言いつけ自分もやった。瞬く間に材料は出来上がり、色とりどりの皿と、白いパンがテーブルに並んだ。生クリームも缶詰も既に用意してある。
「挟むのは……ハムときゅうり。ハムとレタス、チーズ。ハムとたまご。……まぁ、それを基準にして、適当にやりましょ!フルーツサンドの方は私に任せてね!」
 俺はナオが言っていた標準のセットに加えて、たまごとチーズなどの別のセットも作った。色とりどりの材料は、白いパンに挟まれて、食卓へと並んでいった。
「よっしゃぁっ! 出来上がりだねっ♪」
 パンパンと手についたパン屑を払うと、包丁で切り分けていく。四角、三角……流石に丸はないが、様々な形のサンドイッチが顔を出した。
「結構美味しそうだな」
「何言ってるのよ。美味しいに決まってるでしょ!」
 それぞれの皿に盛り付けていく。一緒に買ってきたジュースをコップに注ぎ、準備は万端だ!
 さぁ、食べよう。そう思って席についた。けれど、ナオは何処かへ行ってしまった。サンドイッチだから冷めると言う事はないんだが……何処に行ったんだろう?
 そんな思いが届いたのか、ナオが帰ってきた。
「何処、行ってたんだ?」
 その問いには答えず、自分の皿とコップを持つと俺を呼んだ。
「タケっ!雨が上がったから、外で食べよう!」
 そう言われたので、俺も立ち上がり、テラスに置いてある白色の中世的なテーブルセットの方へと歩いていって、テーブルに皿とコップを置いた。
 目の上に手を当てながら、空を仰ぐ。確かにもう雨雲の姿はなく、“青”とは言えないが、そこそこ綺麗な空が広がっていた。
「サンドイッチ作り……結構時間がかかっていたんだな」
「そうみたいね~」
 椅子に腰掛けながら、呟いた俺に、ナオが同じように返した。
 その時だった。
 頭上に一滴の雫が落ちたのだ。
「冷たっ!」
 俺は思わず頭に手やり、幾分湿った髪の毛の中の完全に濡れてしまった部分に手をやった。ナオが小さいタオルを渡してくれたので、すかさず拭く。……今日はついてないかも。
「いっただきまーす!」
「いただきますっ」
 それぞれに手を合わせ、サンドイッチを手にとった。ナオはフルーツサンド、俺はハムたまごサンド。口に入れた時に広がるこの味……うん、美味しい!こんだけ美味しかったら……雨の中買い物に行った甲斐があったってもんだな。
 俺が一人でウンウン頷いていると、ナオが立ち上がり、フルーツサンドを持っていない方の腕で空を指差した。
「ねぇ、タケ! ホラ、虹が出たわっ!」
「うわぁ……綺麗だな……」

 買い物に行って、グチャグチャになったズボン。
 けれど、この時間と、美味しいサンドイッチ、そして綺麗な虹を見せてくれた事を考えると……安い代償だったかもしれない。虹……こればっかりは雨に感謝しないとな。

 俺たちは、綺麗な七色の虹を見ながら心地よいランチタイムを過ごした。
 近くの水溜りで、雫が一滴、跳ねて――消えた。



 F i n .
2003/11/19